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瓶詰めの蝶々 第十七回

 沈黙のなか、剥き出しの二の腕が、俄かに粟だつのが感じられた。櫻井晃子と名のった家政婦は、依然として戻らない。とっくに悟は、ソファに戻っているが、耳だけはそばだてている様子。

「どうして画家は、人を殴ったりしたんだろう?」

 このリビングに対する違和感は、殺風景さばかりが原因ではない。板が剥き出しの床に、以前は絨毯が敷かれていた筈だし、壁紙も記憶したものと異なり、より古風な模様に変わっている。けれど、最も異質な気配を放っている根源は、壁にかけられたカッシングの絵ではあるまいか。

 数えてみれば六枚しかない。それにどれも三十号に満たない、小品ばかりである。コーディネートの都合上か、あるいは他に理由があるのかわからないが、わざと「軽い制作」ばかりが選ばれているように思える。

 にもかかわらず、それらの絵は有機的なインパクトで、たちまちこの部屋を、異様な色に塗りこめてゆくようだった。紅葉は言う。

「そこのところは、私も詳しくは知らないんだけど。なにしろだいぶ前に、向こうで起きた事件だから」

「アメリカ?」

「イギリス。カッシングはウェールズ出身で、事件を起こすまでは、田舎から出ていないみたい。ただ、何しろ徹底的な秘密主義者だったから、過去の足跡もなかなか追えないのよ。一つだけわかっているのは、殺されかけた相手が、男性ではなかったということ」

 竜也は眉をひそめた。心身喪失状態にあったにせよ、ステッキで女を殴る人間が存在するなど、想像したくなかった。

「でもきみは、なぜこの変人画家について、詳しいんだい」

「ファンだから、としか言いようがないわね。素行に問題があるにせよ、絵の素晴らしさは認めざるを得ない。もちろん実物を見たのは初めてだし、図版でも、そう多くの作品は見られないんだけど」

「個人蔵になっているから?」

「そういうことね。図版に起こすためには、もちろん写真を撮らなくちゃいけない。でもかれのコレクターたちは、なかなかそれを認めない。ある日本のノンフィクションライターが、コレクターのツテを頼って、拝み倒して、何度も門前払いを食いながら、ようやく一枚の絵を撮影できた経緯を、雑誌で読んだ覚えがあるわ。だから、小品にせよ、こうしてカッシングの未発表作品を何枚も見られるなんて、ファンにとっては夢のような話。私、竜也くんに感謝しなくちゃいけないかもね」

 かれは鼓動が高鳴るのを覚えた。いきなり名前で呼ばれたせいか、それとも「感謝」という言葉に、一抹の不吉な響きを感じたためか、わからないが。

「いつ頃から画家は、ここに住んでいたんだろう。おれが訊くのもなんだけど」

「日本には、十年ほど前から来ている筈よ。当時から、日本人女性とのスキャンダルが絶えなかったみたい」

「ヤマトナデシコが好みだった?」遠くから悟が口をはさんだ。

「バルテュスは座頭市のファンで、奥さんは日本人だわ。その影響でもないんでしょうけど。ただ、バルテュスやダリのように一途ではなく、ピカソをもっと酷くしたような感じかしら。複数の愛人が常にいて、飽きれば容赦なく捨てていった。典型的なブルービアード型ね」

「ブルー……?」

「青髭よ、お伽噺に出てくる」

 次の絵の前へ移動して、たちまち紅葉は、ぎくりと立ち止まった。竜也はしばらく、そちらへ目を向ける気になれなかった。彼女の澄んだ声には、僅かに動揺のビブラートがかかっていた。

「小仏峠にいつ頃移り住んだのか、ちょっとわからない。何年もの間、マスコミにもまったく消息がつかめなかったみたい。それがおよそ一年前、この辺りにいることが知れたのは、かれが行方不明になった記事が、報道されたためよ」

 どん、と廊下でもの音がした。

 まるで床板を、重い杖の先で突いたような音だった。悟が立ち上がりかけた姿勢のまま、もの問いたげな表情でこちらを見ていた。

「おい、今の……」

 振り向いた紅葉の顔は蒼ざめていた。その先に架かっている絵に、たちまちかれの視線は釘づけにされた。

 そこが高い塔の上であることは、先の尖った靴の下に、鋭角の屋根の頂点が、かろうじて描かれていることでわかった。月が出ていた。黒猫が宙で踊っていた。山高帽にフロックコート姿の男が、ヴァイオリンを弾いていた。ねじ曲がった姿勢から、狂ったように掻き鳴らされる旋律が、今にも聴こえてきそうだった。

 男は猫のように眼を輝かせ、尖った鼻に尖った耳。げっそりと削げ落ちた頬から下は、青い髭で覆われていた。

「カッシングの自画像だわ。もっとも、髭は故意に描きこんだのでしょうけど」

 背後で、ドアの開く気配がした。

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