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瓶詰めの蝶々 第十六回

「バルテュスの風景画にちょっと似てるけど、こっちのほうが、攻撃的でなまめかしいわ。ひたすら荒涼とした中に、やがてざわざわと、何ものかが息づき始める。それはファン・エイクやデューラーの系譜とみずからを位置づけている、かれの超絶技巧にもよるのでしょう」

 評論家めいた口調とは裏腹に、声のトーンから、彼女が興奮していることがわかった。

「ここをよく見て」

 指さされた辺りを覗き込んだ。必然的に三つの顔が接近する。蜜に似た匂いは、紅葉の髪が香るのか、それとも画面から醸されるのか。昏い森の中ほどに、わずかに木漏れ日が落ちている。あるいは月光だろうか。うっすらと光をたたえた中で、三つの白い影が、からみ合うように踊っていた。

「蝶……それとも、人間の女?」

 指摘されなければ気づかなかったほど、ごく小さな姿が、どんな技法を用いたのか想像もつかないほど、緻密な筆致で描きこまれている。

 妖精だ、と悟がつぶやく。眺めているうちに、三対の翅は、幻のように白く明滅しながら、羽ばたいているように思えてくる。するうちに森ぜんたいが、ほかには生きものがまったく描かれていないにもかかわらず、葉叢をざわめかせる、妖しい息遣いに満ち満ちてゆく。

 覚えず視線を逸らすと、ハシバミの実のような、紅葉の瞳とぶつかった。

「ね、すごいでしょう。これなんか、ごく軽い制作なんだろうけど。でも、写真版と、実際にタブローを見るのとでは、まるで違うわね。絵の具が生きているというのかしら」

「リチャード・カッシング、だっけ。有名な画家なのかい。おれはまったく知らなかったけど」

 そんな大画家が、こんな辺鄙な所に、しかもかれの家の別荘に、人知れず住みこんでいたこと自体、奇怪としか言いようがない。まるで美術館を散策するように、次の絵へ足を運びながら、紅葉が答えた。

「一般的には、知られていないわ。かれは作品を流通させることを、極端に嫌ったから。大きな画商でさえ、かれの作品を買いつけるチャンスには、めったに恵まれなかった」

 さっきの風景画よりは、一回りほど大きい。風変わりな室内の情景で、壁が奇妙な角度で繋がっている。真上から見れば、八角形になるのだろうか。一本の長い鎖で、部屋の中央にランプか香炉のようなものが吊ってある。けれども鎖のもう一方の端は、暗い夜空に溶けているのだ。

「でも、それでは食べていけないんじゃないか」

「限られた個人のコレクターに売っていたのよ。ある意味、むしろ商売上手だったのかもしれない。市場に流通しないぶん、価格は跳ね上がるわけでしょう」

「名の売れた画家の絵に限るけどね」

「もちろん、最初はかれも、絵をギャラリーや展覧会に出していたみたい。やがて『妖精の鉄槌』という、たった一枚の絵が、カッシングをシュールレアリスムの巨匠にのし上げたわ。その絵は」

 紅葉は急に言葉を切ると、面前の絵の上に目をさまよわせた。

 それぞれの壁の前には、玉座を想わせる椅子が置かれ、十八世紀ふうの衣装を身につけた人物が、一人ずつうずくまっている。全体の暗いトーンに対し、衣装の色彩だけが、悪趣味なまでにけばけばしい。それでいて、玉座の人物たちは、誰もまるで生きている感じがしない。かれらが皆、グロテスクな仮面をつけているせいかもしれないが。

 動物とも怪物ともつかない仮面と、けばけばしい衣装の下には、ひからびた骸骨が、うずくまっているような気がしてならなかった。竜也の声が少し震えた。

「その絵は?」

「精神病院で描かれたの」

 マリオネットめいた動作で、仮面の人物たちが、一斉に玉座から立ち上がる幻から、かれは顔をそむけた。

「傷害事件を起こしてね。あやうく人を一人、ステッキで殴り殺すところだったというわ。でも精神鑑定の結果、責任能力は問われないことになった。五年もの間、かれは入院……というより、幽閉されていたみたい。そうして五年間、カッシングが執念の塊となって描き続けた一枚の絵が、『妖精の鉄槌』なのよ」

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