瓶詰めの蝶々 第十五回
◇
真夏だというのに、家政婦は上のボタンまできっちり留めた白い襟と、手枷のような、幅の広いカフスで締めつけられていた。
「藤本さまでいらっしゃいますか」
名のる前に、向こうから尋ねてきた。ようやく我に返った竜也は、「ぼくがそうです」と答えるのがやっと。
「お荷物を、お預かりしております」
三人が、めいめいこの日を指定して、荷物を送ったのである。なのに竜也が代表とみなされたのは、やはり家政婦がこの家と「藤本家」との係わりを、ある程度知っているせいに違いない。
切れ長の目。
まっすぐな髪は、どこか大げさな、フランス映画に出てきそうなボブで、肩にかかるかかからないか。背は「竜也の家政婦」より少し低いくらいだが、若干猫背気味な彼女と異なり、ぴんと伸ばした背筋が、彩子の言うとおり、日本人離れした風格を添えていた。
「父と連絡がとれなくて。もしかすると、ここの持ち主が変わったことを知らないまま、ぼくたちは来てしまったのかもしれません」
「とりあえず、お上がりください。わたくし、櫻井と申します」
慣れた手つきで、名刺をわたされた。エプロン姿の家政婦と名刺の組み合わせが、かれを少々、まごつかせた。白い紙にはただ、活版印刷とおぼしい、おうとつのある活字で「櫻井晃子」とのみ、刷られていた。
「これ、蝶ですよね」
横から覗きこんだ紅葉が、たちまちかれから名刺を奪い、斜め上にかざした。どうやら透かしが入っていたらしく、一辺に蝶の右側の翅だけが沿うようなデザイン。切れ長の目を細めて、晃子はうなずき、
「どうぞこちらへ」
リビングに通された。そのあまりの殺風景さに驚いたのは、竜也ばかりではないようだ。
バス停で彩子から聞いた話では、画家の「家族」が住んでいるという。たしかにソファがあり、飾り棚があり、壁には数枚の絵がかけられている。掃除も行き届いているのだが、生活臭というものを、まるで感じなかった。
空き家を清掃するために、たまたまこの家政婦が居合わせたのではないか。そう考えてしまうほどに。四年前にかれが訪れたときには、たしかにあった、テレビやオーディオも取り払われていた。
「これは、どっきりじゃないのか」
茶を淹れるため、晃子が退室するのを見届けてから、乾いた声で悟が言った。
「どっきり?」
「人の気配が、まるでないじゃないか。何もかも作りものみたいで、舞台セットの中に放り込まれたようだ。本当は、あの壁なんかも張りぼてで、裏では家政婦が、声を潜めて笑っているんじゃないか」
「まさか」
「いいや、きっとこれは、おまえの親父さんに、担がれたのさ。やっぱりここは空き別荘で。おまえに内緒で家政婦をつけるついでに、ひとつ悪戯してやれと」
「あの人に、それくらいのユーモアと暇があればね」溜め息まじりに、竜也は一蹴した。
「たしかにいろいろ変だけど、少なくともこの状況は、洒落じゃない。そんな気がするんだ」
「ねえ、これなんて読むのかしら」まだしきりに名刺をひねくりながら、紅葉が尋ねる。
「あきこ、だろう、普通に。どうして?」
「ちょっと気になっただけ。なかなか戻らないわね、アキコさん……」
何も載っていない楕円形の小テーブルに名刺を置くと、軽い衣ずれの音をさせて、紅葉は席を立つ。そのまま吸い寄せられるように、壁の絵に近づいた。名刺からの連想か、なぜか竜也にはその後ろ姿が、肉食昆虫の罠に引き寄せられる、蝶を想わせた。
まるで息を止めているように、しばらく固まっていた彼女が、やがてほっと溜息を洩らした。
「すごい……本物の、リチャード・カッシングの絵だわ」
声につられて竜也が席を立ち、しぶしぶながら悟も続いた。それは十五号ほどの小さな油彩画で、額装もシンプル。森の中を描いた風景画とおぼしく、様式化された細い樹木が、何本も画面を縦に貫いていた。独特な技法だとは思うものの、竜也の第一印象は、
(地味な絵だな)
どこが「すごい」のか、よくわからなかった。




