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瓶詰めの蝶々 第十二回

「都心のビル街のど真ん中に、東京ドームの四つぶんの森がある。と言えばわかりやすいかしら。コンセプトどおり、原則として人間の手は加えられないんだけど、異変はこの中で起きているの」

 里見彩子は思わせぶりに言葉を切ると、三人の顔を見わたした。紅葉にせよ彼女にせよ、「語り部」の才能がありそうだ。悟が生唾を呑む音を、竜也は聴いた。

「シュロという、ヤシ科の亜熱帯植物をご存じかしら。熊手みたいな硬い葉を茂らせ、樹皮で箒が作られる、あのシュロね。自然教育園は一九四九年の開園なんだけど、当時シュロはほんの数本しかなかったというわ。ところが、一九八三年には五八七本、一九九七年には八五五本、世紀を超えて二〇〇七年になると、二〇〇五本に増えている。これはやはり、異変と呼ぶべきでしょうね」

 鼻の付け根にきゅっと小皺を寄せたが、今度は笑顔にはならなかった。やけに細かな数字を暗記しているのは、たびたび講義で取り上げるからだろう。彩子は語を継いだ。

「なにも教育園まで足を運ばなくても、ちょっと観察すれば、同じ現象は至る所にみとめられるわ。とくに多摩地区は保護林が多いから、注意してみて。私は国分寺市の竹藪を、シュロがなかば占領しているのを見て、慄然とした覚えがある」

「それは、よくないことなのですか」紅葉が尋ねた。

「何とも言えない。植物は、適者生存が原則だから、当然、シュロがよくないというわけじゃない。むしろ亜熱帯植物が適者となり、都会で繁茂している現実を、私たちはこの目で見て、知る必要があるのでしょう」

 みょうに冷たい風が、沈黙の中を通り抜けた。倒壊しかけたビルの間から、断末魔の指が宙を掻くように、亜熱帯植物が所狭しと葉を茂らせている。そんな映像が、竜也の脳裏をよぎった。

「いけない。つい、講義みたいになっちゃったわね。きみたちは、これから山頂まで?」

「いえ、今日はそこまでは登りません。途中に別荘がありますので」

「別荘?」

 眼鏡の奥で、しきりに目をしばたたかせている。話しぶりからして、小仏峠を隅々まで歩き回っているであろう、彩子のこの反応は、三人をなんとなく不安にした。

「ああ、そうか。じゃあきみたちは、画家のお知り合いか何か?」

「画家、ですか」

 今度は竜也が目をしばたたかせる番だった。

「違った? 別荘というイメージの建物は、ほかに知らないから。ほら、このまま上ると左手に臨済宗のお寺が見えて、坂が急になるじゃない。いよいよこの辺りから民家もなくなるんだけど。最後のほうの一軒が、野菜の無人販売所を出していて、自家製の梅干が、山歩きにはこたえられないのよ」

「はあ」

「その少し先に、浅瀬をわたる橋があって、木の間隠れに、ちょっと面白い形の三角屋根が見えるでしょう。いかにも江戸川乱歩の小説に出てきそうな、『西洋館』といった感じの」

「間違いありません」

「画家のご家族が、住んでいらっしゃるのよね」

 竜也はさすがに混乱した。

 彼女の言うことの途中までは記憶と一致するが、途中からは、まるですげ替えたように、ちぐはぐな話と化す。そこにあるのは、永年、放置されている別荘に過ぎず、清掃業者がたまに入るだけで、まして「画家」などとは、無縁な筈である。

「だれか、住んでいるんですか?」

 乾いた声が出た。高校の教科書に載っていた『徒然草』に、永いこと人の住まない空き家には、「すだま」という霊が棲みつくとあった。あるいは「狐狸」か、それとも天狗に乗っ取られたとでもいうのか。旧来の森を、シュロが侵食するように。

 彩子は言う。

「ごめんなさい。私も学者ばかだから、芸術関係には疎いのよ。えーと、たしかカッシングさんといったかしら。私なんか、どうしてもクラシックな吸血鬼映画に出てくる俳優の名前を思い出すから、覚えていたんだけど」

「クリストファー・リーが吸血鬼を演じた。その宿敵、ヘルシング博士役の、ピーター・カッシングですね」

 このての話題に強い紅葉が、合いの手を入れたが、どこか上の空。しきりに何かを思い出そうとしているようだ。悟が不安げな声を上げた。

「おまえの別荘、吸血鬼に乗っ取られたんじゃねえの?」

「そのカッシングという画家が、あの家に住んでいるということですか」

 あらためて竜也が尋ねると、彩子は複雑な表情になる。急に口をつぐんだ彼女の代わりに、答えたのは紅葉だ。

「行方不明になっているわ。画家の名は、リチャード・カッシング。たしか去年の今頃、小仏峠で消息を絶って」

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