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瓶詰めの蝶々 第十回

「薬王院のご本尊、飯縄権現は、一風変わった神格と言えるわね。権現様とは、どういう意味か知ってる?」

 男の子二人は顔を見合わせ、首を振った。よく聞く言葉だが、あえて意味を考えてみたことはなかった。

「蛇滝口」という名のバス停を過ぎ、左右の杉山からにょっきりと突き出した、高速道の二重の高架を潜った。谷川は少し逸れたが、水路が蛇行しながら、古道に寄り添っている。

「仏・菩薩が仮に神の姿をとって、あらわれたもの。それが権現様よ。教科書にも出てくる、本地垂迹説ね。ふつう、飯縄明神の本地仏は勝軍地蔵だといわれ、武田信玄も帰依していたみたいだけど。高尾山の飯縄大権現の本地仏は、不動明王だと言われている。かつて日本では、神様と仏様はさして区別されなかった。おおらかな神仏習合だわ。お寺の中に神社があり、神社に仏様が祀られていた。ところが明治政府が出した、例の神仏分離令で、神と仏、寺と神社は切り離されてしまった。もちろん、権現様というのは、前からあったのだけど、偏狭な政治的意図に対する、苦肉の策も含まれているのでしょう。神社合祀もそうだし、日本では前代未聞といえる伝統的宗教への弾圧を行った明治維新を、だから私はあまり好まないのだけど。ならばキリスト教への、世界に恥ずべき残虐な弾圧を行った江戸幕府はどうなんだと言われれば、口をつぐむしかないのだけど」

 話があらぬ方向へ流れるのを防ぐためか、彼女は一旦、口をつぐんだ。悟は六本めだか七本めだかのペットボトルを取り出したが、飲むのを躊躇っていた。ひんやりした風が通りすぎ、若者たちの髪を揺らした。

 歌うように、紅葉は語を継いだ。

「飯縄権現。その姿は、火炎を背負った、猛禽の嘴をもつ天狗のような尊形が、狐に乗っているというものよ」

「天狗が、狐に?」

「不思議でしょう。そこのところが、この神格の複雑な成り立ちをあらわしていると思うのね。じつは天狗は、星と密接なつながりがあるのよ」

「星と」溜め息混じりに、悟がつぶやく。

「ええ。天翔けるイヌと書いて天狗、でしょう。その姿を夜空に映し出せば、何になるかしら」

「彗星だ」竜也は我知らず、青空を眺めた。

「その通り。あるいは犬よりも、尻尾のふさふさした狐のほうが、箒星のイメージに似つかわしいのかもしれない。また狐には北辰、すなわち北極星の意味が含まれるとか。北極星は古来、星々の王とみなされて、とくに道教における信仰が有名ね」

「道教といえば、仙人だよね。山に籠もって、不老不死になるための修行をするんだろう。不老といいながら、頭に浮かぶのは、白い髭を地面まで垂らした姿だけど。しっかり老いてるし、みたいな」

 くすりと、紅葉は肩を揺らした。

「そんな山岳信仰が密教と結びつけば、修験道の行者がたちあらわれてくる。言うまでもなく、かれらもまた、天狗の姿になぞらわれるわ」

 天狗談義もひと段落といったところで、なんとなく三人は足を止めた。

 古道の左手にたたずむ、いかにも田舎然としてのどかな景観と裏腹に、右手には山を切り裂くかのように、中央道がグロテスクな威容を呈していた。

 しばらくは三人とも無言で進んだ。コンクリートの狭い空き地に、忽然と古いポンプが据えられ、「この水は飲めません」との張り紙。

「飲まなければ、何をしてもいいのね」

 紅葉が片目を閉じたあと、かれらがしばし、児戯めいた水遊びに興じたことは言うまでもない。

 道が少し下り坂になったあと、「裏高尾」のバス停を確認した。左に釣り堀を眺めつつ進めば、しだいに道がせばまり、両側から山の斜面がクローズアップされるよう。次のバス停を読めば、「日影」である。

 まさに、この辺りは常に日が陰っているようで、実際に蒼い影が三人を包み込んだ。汗だくの悟が腕をさするほど、急に涼しい風が吹く。

 小川を渡り、煉瓦色の高架線路を潜る。ここでJR線が古道の左から右へ移動するのだ。

 いつ果てるとも知れない、平坦に蛇行する山道に、さすがに三人とも口数が少なくなる。やがて右手に、いきなり巨大な変電所があらわれたかと思えば、そのすぐ先が折り返し地点。

「小仏」のバス停である。

 場違いなほど大きくて真新しいトイレがあり、ベンチや自動販売機があるけれど、それがかえって、これより先はバスも通わないのだということを、思い知らせるようだ。

「ありがたあい、綺麗なトイレがある。だってここまで一つもないんだもの。どうなることかと、内心ひやひやしたわ」

 無邪気に喜んで駆け込む紅葉を見送って、男の子二人は肩をすくめた。

「少し休もうか。もうちょっとの辛抱だよ」

 停留所にバスはなく、発車時刻まで間があるようで、待ち人の姿もない。リュックを肩から下ろし、ベンチにかけたところで、紅葉も戻ってきた。竜也が席を譲り、自販機から転がったばかりの、冷たい缶ジュースを皆に振る舞った。

「美味しい!」

「なあ、お菓子の家に辿り着くためには、まだ山登りしなくちゃいけないのか。たとえデタケンがタキシードを着てあらわれても、金輪際ペダルを踏めそうにないんだが」

 デタケンとは妖怪の一種ではなく、桐越音大の名物変人教師、出田健の渾名である。

「要するに?」

「足が棒のようだ」

「こんにちは」

 やはり場違いなほど明るい声に驚いて、三名同時に顔を向けた。

 小柄な体に不釣り合いな、巨大なリュックを背負ったまま、若い女性が頭を下げた。ショートカットに黒縁の眼鏡が、いかにも純朴な印象を与えている。

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