瓶詰めの蝶々 第九回
「そういえば、例の家政婦さんは来ないのかな。えーと……」
何が「そういえば」なのかわからないが、悟は残り僅かになった、四本めのペットボトルを日にかざして考える仕草。
「勅使河原さん?」どこか懐かしげに、紅葉がつぶやく。
「そうか。きみも顔見知りだったね」
ある意味、恩人と言えないこともない。顔色の冴えない、無愛想な家政婦と、紅葉は「あの事件」以来顔を合わせていなかった。
関所の跡を通り過ぎると、せせらぎが聴こえ始めた。
やがて左側に沢が姿をあらわした。相変わらず民家は並んでいるものの、急に山の気配が濃くなるようだ。沢は、高尾山の「裏」を縁どるように、だいぶ低い所を流れており、川底がはっきり見えるほどの浅瀬である。浅川という、単純明快な名がつく。
山を下りてくる老夫婦とすれ違う。たしか、もっと下ですれ違ったカップルも、かなり年配だった気がする。いかにも健脚で、杖を第三の足のように操りながら、微塵も疲れた様子がない。すでに息が上がっている悟が、驚嘆の表情で振り返った。
「なんであんなに元気なんだ。まるで、庭を散歩しているみたいじゃないか」
かれら、自在に山を飛び回る老人たちは、いつしか自然と同化して、妖怪になるのではあるまいか。
「で、来るのか? 来ないのか?」
「はい?」
「テッシーだよ」
「アイルランドの怪物じゃあるまいし。ある意味、似てなくもないけど。まあ、さすがに断ったよ。彼女だって、ほかにも仕事があるんだから、そう山の上に、五日も六日も拘束できないだろう」
「人里離れた山荘に、藤本くんが若い家政婦を、五日も六日も、拘束、か……」
小説の筋でも思いついたように、感慨深げにつぶやいた紅葉は、二匹の草食獣の疑わしげな視線に気づき、慌てて手を振った。
「何でもないのよ。こっちの話」
「はあ?」
「だけど、本当に何もない所ね。これはこれで、いいんだけど」
沢のかたわらで、赤い前掛けと帽子を着けた地蔵さまが、千羽鶴と庚申塔に囲まれて立っている。用水路と並走する谷川の光景は、たしかに佳い風情を醸しているが。
「高尾山の薬王院みたいな、呼びものもないからね」
「天狗の話に戻れば、やっぱり高尾山に天狗がいると言われるのは、薬王院があるからなのね。あそこのご本尊さまが、飯縄権現でしょう」
「イヅナというのは、狐のことじゃないのかい」影絵の手つきで、悟が尋ねる。
「そうね。普通、どうしても狐使いの術のほうを、思い浮かべるわ」
「イヅナって、普段は竹筒の中に入っているんだろう。クダギツネとも言ったっけ。狐というよりは、イタチに近い姿をしている。呪術師がこれを放てば、様々な情報を集めて来て、かれに囁く。だからカラクリを知らない人の目には、かれが予言者のように見えるんだね」
「それも中西さんから? あと、相手を病気にしたり、ものを盗んだり。富を吸い取って我がものにするともいわれるわ。ただし、放っておくと、クダギツネはどんどん増えて、やがて術者の手に負えなくなってくる。だからと言って、一旦このキツネにとり憑かれると、『落とす』のがまた大変なのよ。とある秘法を用いなければ」
「どうやるの?」悟が小さな目を、眩しそうにしばたたかせた。
「頭に菅笠を被ってね。服を着たまま川に入るわけ。浅瀬から、だんだん深みへと進むうちに、術者にとり憑いていたキツネたちは苦しがり、しだいに上のほうへ登ってくる。おしまいにざぶんと頭まで沈むと、菅笠の上に集まる。そこで静かに顎紐を解いて、キツネごと笠を流してしまうというわけ」
せせらぎをうそ寒く感じたのか、悟は肩を上下させた。
「じゃあ、薬王院には、そんなヤバいご本尊が祀られているのかい?」
沢に面して、黒ずむほど木々の生い茂った、そびえ立つ壁の向こうに薬王院はあるのだろう。「裏」側と異なり、今頃も境内は参拝者で賑わうのだろう。
そちらを見つめたまま、紅葉は小さく首を振った。




