瓶詰めの蝶々 第八回
「ではここで、簡単な民俗学的実験を行ってみましょう。岡田くん」
「あ、ああ?」ハシバミのような瞳に、いきなり見据えられて、心なしか頬を染めている。
「もし岡田くんが妖怪だったら、どんなふうに出てくる?」
「そうだな。竜也の部屋に出るとしたら、ベッドの足元にじっとうずくまって、こいつが起きるまで待っているか」
「底抜けに暗いやつだな。おまえの恨みだけは、買いたくない」
ひとしきり笑って、紅葉が言う。
「質問がよくなかったわね。妖怪だから、幽霊と違って個人的な恨みはないの。もうちょっと牧歌的に考えて。あなたは林の中に隠れています。折しも、向こうから村の悪がき連中が、棒を振り回しながら、わいわいとやって来ました。あなたは妖怪の本性として、脅かさなくては気がすみません。さあ、どうする?」
「がおー」
「それ怪獣だし。しかも怖くないし」
巨体の上に童顔を載せた悟は、むしろ戯画化されたキャラクターを想わせた。竜也に突っ込まれて機嫌を損ねたかれを、次は紅葉がなだめる恰好。
「それが普通だと思うよ。もっと昔は、がんもうとか、ももんがあと言いながら脅かしたというわ」
モモンガ……とつぶやいて、男子二名は顔を見合わせた。やがて竜也が言う。
「ああ、その話、中西さんに聞いた覚えがある」
「中西さんって、あの中西青司?」紅葉が瞳をくるくると動かす。
中西青司は新進気鋭の音楽家で、名古屋を活動の拠点としながら、めきめきと全国に名を知られつつある。竜也が桐越音大に一発で合格できたのも、この青年がコーチしてくれたおかげと言えた。
「かれは音楽のみならず、その他もろもろのジャンルにも造詣が深くてね。なぜか妖怪にも、みょうに詳しかったけど、それって柳田国男だよね。がんもうとか、ももんがあとか、悟の変な怪獣もそうだけど。もともとは『噛もうぞ』。つまり食ってしまうぞという意味なんだって」
「へえ、そうなのか」
しきりに感心している悟の脇から、紅葉が、意味ありげな視線を送ってきた。名探偵のように、人さし指を宙にかざして、彼女は言う。
「あまりにも有名な、柳田の『妖怪談義』だわ。完璧なまでに鮮やかな謎解きに、だれも二の句が継げなかった。疑いをさしはさむ余地のない、定説中の定説と言えるわね。だけど私は思うのよ。この説は、あまりにも完璧すぎやしないか、と。こと複雑怪奇な人間の性状を扱う、民俗学というジャンルにおいて、数学的に完璧な定理が、果たして成り立ち得るのだろうか、と」
声楽科に席をおくのも伊達ではない。ほっそりと、黒い服に包まれた体のどこから、これほどの声量が放たれるのか。朗々とアリアを歌うような迫力に気圧されて、しばし二名は無言のてい。
「どういうこと?」ようやく竜也が口を開いた。
「岡田くんはさっき、がおーと言いながら、爪を立てる恰好をして、両手をこんなふうに、広げたわよね。もう一度やってみて。そうして今度はそのまま、ももんがあと言ってみて」
「ももんがあ」
いかにも滑稽な悟の姿を前に、竜也は覚えず「あっ」と声を洩らした。勝ち誇ったような視線を、紅葉は向けた。
「ね。その妖怪は、被膜を広げて空を飛ぶの。噛むものだけが恐ろしいのじゃないわ。まるで覆い被さってくるように、飛翔する化け物もまた同じくらい怖いのよ。杵小僧が、恐れられていたみたいにね」
二人とも二の句が継げぬまま。けっきょく天狗の問題は棚上げにされたままだが、しばらく三名は、無言で坂を上った。
もとは関所だったという、小さな公園が右手にあらわれた。立札の脇を覗くと、手形石、および手付石と記されている。四十センチ四方ほどの、ふたつの平たい石が、街道に対して、縦に並んでいた。旅行者は奥の手形石に通行手形を置き、手前の手付石に手を置いて、審査を待ったとか。
公園では、祖父が孫を遊ばせているばかり。今でこそひっそりと景観に埋もれているが、関東への入り口とも言うべき、要路中の要路である。各藩の密偵たちを相手に、しばしばここで血腥い剣戟が、聴かれたのかもしれない。




