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瓶詰めの蝶々 第六回

 百日紅が咲いている。

 坂はゆるやかで、あたりまえに民家が建ち並び、大きな病院なんかも混じっている。裏高尾という言葉が与える、近寄りがたい印象は、今のところまったく感じられない。

 右方、はるかな高みを見上げると、山を跨ぐような支柱の上を、中央線、および中央道が坂道と並走している。

 甲州街道のルートが、とっくに変更された後も、鉄道と高速道は、鉄の柱に高々とかかげられ、いまだ古い道筋を通って甲斐の国へと向かうのだ。そもそもこの小仏峠越えのルートは、武田氏と後北条氏との抗争の中から生まれたという。

「天狗さまだって、いらいらするでしょうね。スピードを追求するばかりの空疎な文明に、頭の上を跨ぎ越されては」

 高架線を見上げたまま、誰に言うともなしに紅葉がつぶやいた。喉を鳴らして、悟はすでに二本めのペットボトルを飲み終えると、思い出したように尋ねた。

「そういえば、なんで高尾山には、天狗が棲むと伝えられるんだろう」

「ムササビが棲むからさ」

「はあ?」

 体と不釣り合いな、幼い瞳が竜也へ向けられた。神秘の謎を打ち明ける口調で、かれが語るには、

「おれ、一度だけ、野生のムササビをこの目で見たことがあるんだ。家族で九州のどこかへ旅行したときだったかな。子供の頃の記憶なので、その辺りが曖昧なんだけど。岩に刻まれた仏像か何かを見るために、林の中を歩いていた。だいぶ葉の落ちた木々のいくつかに、巣箱がかけられていたのを、みょうによく覚えているよ」

 すでに悟の目つきは、浅草の縁日の見世物小屋の看板を眺めるそれに変わっていた。対して紅葉の瞳は、栗鼠のような好奇心に、くるくると揺れ動いた。そんなことには無頓着に、竜也は語を継いだ。

「両親からだいぶ離れて、おれは独り、前を歩いていた。あるいは、後ろだったのかもしれないが。いきなり巣箱の一つから、茶色い、みょうにでっかい、毛むくじゃらの毬のようなものが、転げ出てきたんだ。ころころと、そいつは木を滑り下りると、腐葉土の上で、兎とも猫とも鼠ともつかない、四足獣に変化した」

 変化は「へんげ」と発音された。

「得体の知れないモノを見た恐ろしさとは裏腹に、足が勝手に、そいつを追って駆け出していた。もっさりした体つきからは、想像もつかない速さで、そいつは地を駆け抜けると、前方の木の上へ、敏捷な小猿のように、するするとよじ登った。そうして」

 飛んだんだ。

 かれは立ち止まり、はるか頭上を行き過ぎる、何モノかを目で追う素振り。あとの二人もまた、夏空の下に幻の軌道をなぞった。我知らず、悟は生唾を呑みこんだ。

「そいつが……?」

「ムササビだと気づいたのは、腰を抜かしたように座りこんで、しばらく経ってからだ。写真やイラストで見る、愛らしい生き物とは、別モノだった。被膜を広げて空を飛んだとき、毛むくじゃらの体が何倍にも膨れ上がったように感じた。その巨大さに圧倒された。おれがまだ幼かったせいかもしれないけどさ。その姿はまさに、化け物以外の何でもなかった」

 再び歩き始めたところで、溜め息を洩らしたのは、紅葉。

「もったいないなあ、そういう話。夜にとっておけばよかったのに」

「夜に?」と、男の子二人は顔を見合わせた。

 竜也は単純明快な小動物みたいに、要するにばかみたいに目をまるくしていたが、あらためて悟は、「夜に」紅葉が一つ屋根の下にいるのだという信じ難い事態を、喚起させられずにはいられなかった。子羊のごとくか弱き乙女が、たった一人。野獣のごとき精力を持て余した若い男二人と。

 同じ野獣でも、二人とも同級生女子から、草食獣呼ばわりされているにしても、だ。

「そう、夜に。百物語をしないなんて、あり得ないでしょう」

「三人で、百も怪談噺を持ち寄るのかい?」相変わらず単純に、竜也は訊き返す。

「略式でいいのよ。一人二話ずつ、六本の蝋燭を吹き消せば充分じゃない。六は悪魔の数字だというし。うふふふふ……」

 妖女のように紅葉は笑い、あられもない空想の闇の中からようやく立ち返って、悟がまくしたてた。

「ちょっと待ってくれ。竜也の『怪談噺』を蒸し返すようだけどさ。ムササビは完全に夜行性で、まだ明るいうちは、決して森の中をうろついたりしないんじゃないか。高尾山といえば、有名なムササビの棲息地だけどな。でも、実際に目にするのは至難のわざだというぜ。夜な夜な息を潜めて張り込んでいたとしても、よほど幸運が味方しなければ、目撃できないとか。いやそんなことより、そもそもなんでムササビが天狗なのか、何の説明もされていないじゃないか」

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