瓶詰めの蝶々 第五回
竜也がつぶやき、二人とも橋の上で立ち止まる。煉瓦を組んだ架橋の上を、列車が轟音を尾に引きながら通過する。左を向けば、何やら古風な家があり、これが『大菩薩峠』でも有名な旅館の跡だとは知る由もないが、右側の沢のたたずまいに、否応なく目を惹かれた。
小ぢんまりしているが、岩を割って蒼い水のほとばしる風情が、なんとなく奥ゆかしい。このちょっとした景観が、江戸時代の『るるぶ』とも言うべき旅行案内記にも書かれた景勝の地であるなど、やはり二人には知る由もなかった。
「本当は、ここから登るんだけどさ。ちょっと行き過ぎる恰好になるかな」
コンビニエンスストアの前で、右手の信号を竜也は指さした。
「高尾山じゃなかったのか?」
「小仏峠だよ。別名、裏高尾ともいう」
「裏……」
すでに額に汗の玉を浮かせている悟が、悪寒を覚えたように身震いした。
さらに歩を進めるうちに、トゥ・トゥ・アンク・アーメン王が今は亡きマハラジャで踊っているような建物が、左手にあらわれた。トリックアート美術館と看板に大書してあり、人工の滝が二人をいささか震え上がらせた。その左方斜め前が、高尾山口駅である。
駅前にもまた、北村紅葉の姿は見当たらなかった。人さし指で、竜也は軽く下唇ををなぞった。これは例の顔色のよくない家政婦が、何か思いついたときにする仕草。
「きっと、土産物屋に引っかかっているに違いない」
登山口に、それらは軒を並べていた。少し歩を進めただけで、軒先にしゃがみ込んでいる黒い服を、容易に見出すことができた。
薄手の、けっこう体に密着したワンピースである。コンスタンツェ・モーツァルトが舞踏会で着用していたような、襟ぐりの開いた肩の上に、黒髪がさらさらと微風に揺れている。どうしてもそのほっそりしているけれど、豊かな腰つきに視線が誘われるのは、彼女が無意識の裡に醸す、フェロモンというのか何というのか、独特な色香に拠る。
「何を見てるの?」
隣で悟が生唾を呑みこむ音を聴きながら、竜也は無頓着に話しかけた。さらさらと髪が揺れて、ハシバミの実のような瞳が、くるくるとこちらを見上げた。
「これ、安くない?」
骨董品店、というのであろうか、少々いかめしい店先に、古銭やら数珠やら鉱物のアクセサリーやらが並べられている。店主は薄暗い店の奥に引っ込んで、顔を出そうともしない。紅葉が指さしたのは、水晶をはじめとする、鉱物のビーズを連ねたブレスレットが詰められた籠。
「相場がわからないけど、そうなの?」
「ぜったい安い。石の名前が書いてないのがあやしいけど、出所はどこにせよ、贋物じゃないみたいだし」
「見分けがつくのかい」
「例えば、ラピスラズリ。群青色の奇麗な石ね、ここにはないけれど。あれが安く出ているときは要注意ね。トルコ石もそうだけど、樹脂を練りこんだものを、そう偽って売っているから。もっとも樹脂が練られていない、奇麗な青い石なんて、ほとんどないんだけどね」
「まるで、青い花のように」
二人は顔を見合わせ、くすくすと笑った。まったく会話についてゆけなかった、悟が忌々しげに、竜也の脇腹をつねった。
「痛いと言っていいか」
「白状しろ。おまえら、本当はつきあっているだろう」
「はい?」
紅葉はけっきょくブレスレットはやめにして、なぜか清朝の古銅貨を三枚買った。一枚二百円が高いのか安いのか、二人の男にはわからなかったが。
そのまま、二十号を高尾駅方面へ引き返す恰好。ただし、両界橋までは行かず、例のコンビニエンスストアの横から、左へ曲がり、坂道へさしかかる。旧甲州街道こと五一六号である。三人の横をバスがゆるゆると通り過ぎた。
「あれに乗って行けばいいじゃないか」
悟の提案に応えたのは、ミンミンゼミの声ばかり。
「私の田舎には、ミンミンゼミはいないんだよ。ほとんど姿は変わらないんだけど、クマゼミといってね。シャア、シャア、シャアって鳴くんだよ。こっちにはいないでしょ? だから、テレビでミーン、ミン、ミンとかやられると、それだけで、異次元の物語みたいだったな。あとお囃子」
そう言った紅葉の「田舎」は山口だったか、岡山だったか。お囃子がどうしたのかと問い返せば、彼女は黒いハンカチで、額をぽんぽん叩きながら言う。
「時代劇とかでさ、お祭の場面になると、てんてん、てててん、という音が流れるじゃない。あれもないんだよね。関東独特の文化なんじゃないかな」




