瓶詰めの蝶々 第四回
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七月二十三日、水曜日。
JR高尾駅は、京王線の高尾駅でもある。
京王線に乗り換えれば、高尾山口駅まで行くことができる。岡田悟もまた、当然乗り換えるものと考えていたが、竜也は少しも迷わず、逆方向へ歩を進めた。
「おーい、そっちはJR線のホームだろう」
「出口だよ」
たしかに、駅から出るためには、階段を上って下りて、ホームをひとつ素通りしなければならない。ここにおいて悟は初めて、竜也がこの駅で降りるつもりだと悟った。理由はまったくわからないにせよ。
どこか玩具じみた、古風な駅舎を出ると、陽射しがまぶしい。それでも都心よりは、確実に一、二度くらい、気温が低いのがわかる。二人とも軽装である。荷物は宅配便で届くし、何といっても夏である。地球温暖化が叫ばれ久しいが、巨躯に比例して汗っかきの悟は、水分の漏洩を極力避けたいところ。
もしこんな所で降りず、高尾山口まで行けば、ケーブルカーがあり、ロープウェイもあり、山頂付近まで楽に行けたはず。例の「山荘」は、ずいぶん山の上だと聞く。むらむらと湧き起こった、ひとつの恐ろしい疑惑を、かれは口にした。
「まさか、歩いて登るつもりじゃないだろうな」
藤本竜也は、けれど何も答えず、券売機の前に突っ立ったまま、辺りを見わたし、ぽつりとつぶやいた。
「来てないなあ」
数秒間考え、ようやく思い当たって、悟が言う。
「本気にしてたのか? そもそもあれは、冗談じゃなかったのか」
夏休み間際の学食。黒い服を着て、嫣然と微笑む女子学生……北村紅葉は、「私も行きたい」と申し出た。
それは悟もたしかに聞いたのだが、よくある軽口の類いだと解釈していた。そもそもこちらは男子二名。二名とも、ピアノ科の女子連中から「草食獣」のレッテルを貼られているにせよ、仮にも男子である。あやしげな山奥の別荘に、男子二名と女子一名が閉じ籠もるシチュエーションなど、現実にあり得るだろうか。
いやあり得ない。と、独り反語をつぶやいて、悟は巨躯の上の童顔を左右に振った。が、かれにとって、またしても衝撃的な事実を、竜也は告げる。
「あれから何回か、メールのやりとりがあってさ。バイトも休むことにしたって」
「なぜそれを早くおれに教えない?」
紅葉と書いてクレハと読む。北村紅葉は、声楽科の同学年で、入学当初、竜也の隣室の住人だった。現在は彼女もまた緑館を出ているが、あの事件をきっかけに、急速に親しくなって今に到る。
そもそも、あの二人はつきあっているのか?
口さがないピアノ科の女子会議において、度々もち出された議題である。が、「どうもそうではないらしい」という結論に達していた。美男美女のカップルであり、「なにがあっても不思議じゃない」のだが、どうもそういうことは何も行われていないらしい。そこで竜也には「草食獣」のレッテルが貼られ、悟もまたとばっちりを被っているのだ。
駅前には小ぢんまりしたロータリーがあり、シャツの腕をまくったタクシーの運ちゃんたちが、無駄話をしている。その先に土産物屋や蕎麦屋、コンビニエンスストアなどが見える。好奇心旺盛な紅葉のことだから、土産物屋にでも引っかかっているのではあるまいか。と、目を凝らしたところで、やはり、それらしい女性の姿はない。
まず百パーセント、彼女は黒い服を着ているので、夏場はカラスアゲハのように、ことさら目立つはずなのだ。
「きっとたぶんどうせ、そんなことだろうと思ったさ。天使の姿をした悪魔。世の中に一つだけ、信じちゃいけないものがあるとすれば、それは女である」
オペラ歌手のようにソクラテスのように、悟が朗々と嘆いたところで、ドリフターズ時代のコントをオトすときの効果音のような、ちゃらりらりんという、要するに、竜也のSNSの着信音が鳴る。いわく、
<ごめーん///間違って高尾山口駅で降りちゃったよ^^;))>
駅を出てまっすぐ進み、二十号、甲州街道へ出る。左へ折れて歩いて行けば、高尾山口駅まで、さほど遠くはない。電車かタクシーに乗りたがった悟の要請は、ことごとく却下されていた。
矢印に「相模湖」という青い標識が出ている。模型店の前のわずかな敷地いっぱいにサーキットが敷かれ、ミニ四区のレースが行われている。ぽつんと建っているインド料理店のインパクトも強く、居酒屋の前の水槽の中で、金魚やウグイに混じって、コウライヤナギナマズが、のっそりと顔を出している。
黄色に黒の巨大な矢印が三つ並び、道がカーブにさしかかる。中央線のガードを潜るとすぐに、両界橋が横たわる。
「両界って、どういう意味なんだろう。どんな二つの世界を分けているんだろう。天国と地獄? それとも、あの世とこの世、なのかな」




