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瓶詰めの蝶々 第三回

  ◇

 それならばわたくしは、過去にあの男を愛していたのだろうか? 時おり、そんな疑問が湧き起こっては、胸をえぐります。

 惹かれていたのは確かでしょう。あの碧眼に、緑がかった碧眼の中に、わたくしは捕らえられ、溺れさせられていたのです。

 恐ろしい眼でした。

 もう一つの世界が、あの眼の中にありました。おそらくあの男は、目をつぶってでも描けたでしょう。人物のいない、荒廃した、どこにも存在しない風景なら、いくらでも描けたでしょう。

 荒廃してはいましたが、そこには植物が生い茂り、廃墟化した建物があり、奇怪な生き物たちが蠢いていました。

 おぞましい昆虫たち。茎から直接生えて、蘭に擬態するカマキリや、花とそっくりな巣を編む蜘蛛。魚が地を這い、陸棲の巻貝や甲殻類は肉食。影にしか見えない猿の群れが、奇声を発しながら梢をわたり、どこか遠くでは、たしかに絶滅したはずの孤独な巨獣が、時おり恐るべき叫び声をあげます。

 あの男は、自身の中に棲まうそれらの生き物たちを、描き写せばよいのでした。ただし、いつまでたっても、人物はあらわれません。

 だから……

 女が必要だったのです。

 あの碧眼の中に、閉じ籠めておくための女が。

 評論家たちが口を揃えるように、決してわたしは、カンバスの中に閉じ籠められたのではありません。カンバスの中を、さまよっていたのではありません。デルヴォーの女たちのように、ましてあの男自身の姿などで、あろうはずがありません。そうではなく、わたしが閉じ籠められていたのは、あの男の夢の中でした。いわば、夢に見られていたのです。カンバスに写しだされたのは、だから、わたしたちの影に過ぎません。

 わたしたちの?

 たしかに、そこには狂った姉妹が棲んでおりました。

 眠りネズミが語りだす、尻尾の切れた物語そのままに。夢という名の井戸の底に棲み、快楽という、糖蜜だけを与えられて。

 そうしてどこまでも、病んでおりました。

 糖蜜ばかりを貪り食えば、童話の国の少女が言うように、病んでゆくのはあたりまえですから。

 童話に、あの男が憑かれていたことは、周知のとおりです。狂った帽子屋。ハートの女王。チェシャーキャット。ハンプティ・ダンプティ。贋海亀。グリフォン。白の老騎士。赤の王様、など。童話と、テニエルの挿絵に触発されたキャラクターを、あの男は自身の夢の中に吸収し、おもうさま歪め、荒廃した風景の中をさまよわせました。

 これらのモチーフは、あの『妖精の鉄槌』によって、初めて登場したものです。精神病院に幽閉中に描かれたあの絵。たった一枚の絵が、あの男の名を世界に知らしめ、最後のシュールレアリストという名声とレッテルを与えたこともまた、周知のとおりです。

 ただ、『妖精の鉄槌』にはまだ、現実的な人物は、あらわれておりません。無数の奇怪な生物やキャラクターの背後に、巨大な人間の顔らしきものは描かれていますが、それはあの男自身の顔にほかならず、荒廃した、歪んだ風景そのものに、ほかなりませんでした。

 やはり、女が必要だったのです。

 ならば、わたしが、いえ、わたしたちが、アリスだったのでしょうか。

 たしかにあの男は、わたしに童話の少女そのままの衣装を着せました。そのまま様々なポーズをとらせ、スケッチブックに写してゆきました。あの男が常に用いる、緑色のスケッチブックを、わたしは何度、そら恐ろしく感じたことでしょう。あの男は碧眼と、指を用いて、わたしを吸収するのです。食虫植物のように、わたしのすべてを吸収するのです。

 あの男が、バルテュスと親交があったとも聞きます。徹底した人間嫌いの、とくに画家、その他の芸術家、および評論家たちを徹底的に軽蔑していたあの男が、バルテュスだけは、おのれの同類とみとめていた形跡がありました。

 ガラス張りのアトリエの中で、わたしは、バルテュスの描く少女そのままのポーズを、繰り返しとらされました。椅子の上で。立てた片膝を抱くような恰好で。

 わたしの屈辱を、きっとあの男は愉しんでいたのでしょう。もはや少女ではなくなってしまった。夢と神秘を身近にたぐり寄せていられた、少女という名の楽園からとっくに追放された、わたしに少女の衣装を着せることを。少女だけが許される、無防備なポーズをとらせることを。

 もちろん、如才ないあの男のことですから、盗作と非難されるような作品は、決して発表しませんでしたが。バルテュスの模倣は密かに行われ、デッサンは自身の手で片っ端から火に投ぜられました。

 童話のみならず、あの男はまた、蝶に憑かれていました。そもそも画家という人種の大半は、偏執狂ではありますまいか。同様なモチーフを、同様な手法で何度も何度も描き続けるのですから。糖蜜漬けにされた井戸の底の姉妹にも増して、狂っているのではありますまいか。

 キアゲハ、ウスバシロチョウ、オオムラサキ、ルリタテハ、ウラギンシジミ、テングチョウ、アサギマダラ、そして、ミヤマカラスアゲハ。

 あの男がパナマ帽を被り、捕虫網を持った姿は、十九世紀の挿絵にあらわれる、ジャングル探検隊そのままでした。挿絵そのままであるがゆえに、恐ろしく感じました。あの男は次々と蝶を捕らえては、自身の夢の中に吸収してゆきました。

 あの男がこの地を、この山を、この森をアトリエに選んだのは、様々な種類の蝶が、無数に棲息するからに違いありません。

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