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黄金の聖天 第二十回(解答篇ノ三・最終回)

 彼女は続けた。

「デュシャン氏は、わたくしをレディ・メイドと呼ぶように提案しました。もっとも、あの時点ではまだ、あなたがデュシャン氏ではなかったのですが。同様なイロニーを、わたくしはイズミという名前に感じずには、いられませんでした。あるいはあなたが、ヒントを与えてくれたのかもしれません」

「見くびっていたわけではありませんよ。北鎌倉の事件については、私なりに調べましたから」

 北鎌倉、という言葉に反応して、美架は瞬時、眉をひそめた。そのまま何も言わない彼女に、風蘭坊が尋ねた。

「私がデュシャン氏と入れ替わるところを、ご覧になったのですか」

 蝶の飛ぶ軌跡を追うように、美架は目を上げ、なかば開いた唇に、もう一度人さし指をあてた。

「あのかたは、とても酔っていらっしゃいましたね」

「ええ、とても」

「そうでなければならなかったのでしょう。かれのワイングラスに、薬を入れるのが可能だったのは、やはりイズミさんだけでしたし、わたくしが目撃したとおりです。あのとき……マン・レイ氏のスポットライトが、ゾフィーさんのダンスを追っているとき、デュシャン氏が倒れるのも見ました。同時にイズミさんが、わたくしの手を強く握りました」

「彼女は、あなたに何か言いましたか」

「何も。賢い人です。音楽が鳴り響いていましたし。ただ怯えたような、あるいは、訴えるような目で、じっと見つめられただけです。その間に、あなたがマルセル・デュシャンとなってあらわれました。ほかの人たちの目が、ゾフィー・トイバーに注がれていた、その間に」

「彼女は……イズミは気づいていましたよ」

 美架は風蘭坊へ目を向けた。痩せた頬。鋭く尖った鼻。瞑想するように、なかば閉じられた目。むしろかれのほうが、マルセル・デュシャンの肖像に近い気がした。

  ◇

 時間が止まったようだった。

 音楽はすでに止んでいた。だれも口を開かなかった。すでに部屋の照明がともされており、おずおずと、マン・レイがピンスポットを消すのがわかった。

 それを機に、トリスタン・ツァラがヒステリックな声をあげた。

「ばかな! さっきも言ったように、私は入り口で確かめたのですよ。間違いなく、かれでした。そうしてかれは、一度もこの部屋を出ていない」

 二人の「女」は、奇妙な姿勢でもつれあったまま、依然として微動だにしなかった。ただ美架の声だけが、静かに、そしてどこか悲しげに響いた。

「そうです。ツァラさまの仰言ったとおり、単純な、いやになるほど単純な、物理学の問題でした。わたくしのような、一介の家政婦にも解けるほどの。不可能を消してゆく、いわば可能性の引き算を行ううちに、たどり着ける答えは一つしか残らないのです。風蘭坊は、常に鏡の中にいました」

「鏡?」ツァラの声はかすれていた。

「ええ、鏡のように。だれの目にもさらされているのに、だれにも見えていない場所が、ひとつだけあったのです」

「あっ」

 私は思わず声を洩らした。何人かの会員も、唸り声をあげた。美架はドライバーを持っていないほうの手で、料理があらたかた食べ尽くされたテーブルのひとつを、指さしていた。その「第一の」カートを押してきたのがイズミであることを、私は記憶していた。

 よろめくように、ピカビアがそのカートに歩み寄った。蒼ざめているイズミには目もくれず、荒っぽい手つきで、テーブルクロスをめくり上げた。多くの皿やグラスが床にまき散らされ、様々な音をたてて砕けた。キャスターのついた脚の間には、野戦で用いられる担架のようなものが、括りつけられていた。

 その上で、仮面を剥がれた「本物の」マルセル・デュシャン氏が、鏡の国の王様のように、すやすやと眠っていた。

 炎のようなものが、そのとき、視界の隅でひるがえった。美架が呻き声を上げ、ねじ上げられた腕の先から、マイナスドライバーが床に落ちるのを見た。聞き覚えのある、かん高い笑い声が、八角形の部屋に響きわたった。

「ここにおいて、ローズ・セラヴィとマルセル・デュシャンが、顔を揃えたのです。ダダイストの皆様にとって、これほどの余興はありますまい。負け惜しみと受けとっていただいて結構。レディ・メイドが居合わせればこそ、それが実現されたというわけです。では、ご機嫌よう」

 手を離された瞬間、美架は渾身の力で膝を突きあげた。うっ、とくぐもった呻き声が洩れ、苦悶の中から生み出されたように、暗い、金色の塊が床に転げ落ちた。

「私の負けだ」

 低い、呪文のようなつぶやきを聴いた気がした。ローズ・セラヴィは素早く身を翻し、自身の分身であるデュシャンが眠るテーブルに飛び乗っていた。人間技とは思えない跳躍力で、はるか高みにぶら下がっている吊り香炉にとりついた。

 巨大な振り子のように、ゆうらりと香炉は揺れて、緋色の弧を描いた。ガラスの割れる音が、夢幻のサーカス小屋から、私を現実へと引き戻した。

 ステンドグラスの破片が降り注ぐなか、ベルリオーズのワルツが鳴り響いていた。入り口のドアが開け放たれており、イズミの姿は、すでにどこにもなかった。

  ◇

 衣擦れの音が聴こえたけれど、勅使河原美架は振り返らなかった。

 彼女のほかは、だれもいない温室で、無数の蝶たちが、無言で飛び交っているばかりだった。(終)

主な参考文献/「ダダ-前衛芸術の誕生」マルク・ダシー著・藤田治彦監修/「ダダ・シュルレアリスムの時代」塚原史/「ムッシュー・アンチピリンの宣言-ダダ宣言集」ツァラ・塚原史訳/「麹のレシピ」おのみさ/「修験道修行入門」羽田守快/「図説・日本呪術全書」豊島泰国

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