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黄金の聖天 第十九回(解答篇ノ二)

  ◇

 平日で、しかも雨ということもあり、多摩動物公園は、がらんとしていた。

 人の少ない動物園は、どこかもの悲しい。都会の中の森である上野には、常に華やぎが感じられるが、山になかば呑まれているここでは、たちまちもの悲しさに圧倒されてしまう。パーラーの派手な色も、かえって淋しげで、雨に打たれながらしょぼくれている象を、たった一組の母娘が、やはりしょんぼりと眺めていた。

 歓喜天……象頭の神。

 母娘が去ったあとも、勅使河原美架は、その場にたたずんでいた。傘もささず、肩に髪に、雨粒がふりかかるのにまかせて。

 象は、ときどき尻尾を振るだけで、じっと立ち尽くしていた。雨に耐えているというよりは、みずからの瞑想を楽しむかのように。

 けれども彼女には、あの金色の神像と、この動物を結びつけることができなかった。インドのガネーシャと日本の歓喜天が、似て非なるものであるように。まがまがしいほど暗い光をおびた、あの神像は、瞑想する巨獣とは、あまりにかけ離れているように思えた。

 あらゆる望みを叶えるという。かつて伊藤博文や三井高利も、これに願いを込めたという。ダダイストたちが、いくら空騒ぎの祭壇に祀り上げようとしても、あの神はあまりに多くの「意味」をおび過ぎている。人の「想い」を吸い込みすぎている。あるいは、呪いと言い代えてもよいだろうか。

 あの神は呪われている。

 そろそろ立ち去ろうと考えたとき、何者かが彼女の上に、傘をさしかけた。ぱらぱらと、雨粒の弾ける音が響く。

 大きな翼を想わせる、陰に呑まれながら、彼女は振り仰いだ。背の高い、濃紺の作務衣を着た、僧侶が見下ろしていた。

「濡れますよ」

 ほど近くに高幡不動尊があるので、北鎌倉同様、この辺りで僧侶を見かけることは、珍しくないだろう。けれどもかれと目が合った瞬間、この男が何者であるか、彼女は理解した。

「お久しぶりですね、勅使河原さん。よろしければ、場所を変えませんか」

 低い、張りのある声で僧侶は言う。穏やかな口調には、有無を言わせぬ力が込められていた。無言でうなずくと、僧は彼女の背を押した。黒い傘の陰に隠れて、ゆるい坂道を上り下りした。昆虫館の入り口から、男の子が一人、雨の中へ飛び出してきた。

 少年の驚いた視線を浴びながら、二人は入り口へ向かった。傘の闇から逃れて、ガラス張りのドアを開けると、熱帯の花の匂いにつつまれた。巨大な温室の中では、無数の蝶が夢のように舞っていた。

「天国のようです」

 誰に言うともなしに、彼女はつぶやいた。

「もし、そんなものがあるとすれば」

「仏教では?」

「何も存在しません」

 通路に沿って人工の小川が作られており、緑の厚い葉叢の下を、熱帯魚が泳いでいた。客はほかに誰もおらず、禁断の園に迷い込んだような、軽い罪悪感を覚えた。それでも蝶たちは闖入者を非難する気配もみせず、密を吸う仕事に余念がない。

 永い沈黙のあと、かれに目を向けずに、美架は尋ねた。

「復讐のため?」

「まさか。どうしてローズ・セラヴィ……いえ、マルセル・デュシャンが私だとわかったのか、それが知りたかったのです」

 彼女は少し考えるような仕草。無意識に、人さし指で、軽く下唇をなぞった。

「イズミ……」

「えっ?」

「あの娘の名前が、イズミだったからです」

 顔を向けると、風蘭坊は目をしばたたかせていた。どことなく、さっきの少年に似ている気がした。彼女は語を継いだ。

「『泉』は大鴉シリーズと並ぶ、デュシャンの最も有名な作品のひとつです。しかも最も皮肉な。偶然の一致とも考えられますが、そこにひとつの、非常に高い可能性が生じることは否めませんでした。すなわち、イズミがデュシャンの共犯者であるという」

 蝶たちの翅音が聴こえそうなほどの沈黙が、辺りを覆った。雨音も届かず、ただ人工の小川だけが、せせらぎを作っていた。

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