黄金の聖天 第十七回
「密室、というわけね」
ワイングラスを片手に、ゾフィー・トイバーが言う。嘲笑的な響きが籠もるのは、北鎌倉で、美架が密室殺人の謎を解いたという噂を、耳に入れた上でだろう。ツァラは、片眼鏡の下でウィンクした。
「そうです。この閉ざされた空間は、シュレーディンガーの箱ではありませんが、かれの理論を敷衍すれば、猫殺しの犯人イコール、観察者となるのではありますまいか。そしてあなたがたを最も客観的に観察できるのは、左眼氏ではなく、この私、トリスタン・ツァラであります」
言っている意味はよくわからないが、かれの口調には、どこか人を誘い込むような、魔術的な能弁がある。政界人か財界人か知らないが、仮面を脱いだところでも、かれの弁舌は、おおいに人を魅了するのだろう。事実、メンバーたちの間から、おのずから拍手が起こった。
指揮者のように、ツァラは白い手袋を嵌めた手を振って、拍手をおさめた。
「ええ、極めて単純な問題でありました。誰にも素顔を見られていない人物が、ただ一人だけいるのですから。最初から、この私が風蘭坊だったのですよ」
「お言葉ですが、同意しかねます」
懶惰な空気を鞭打つように、美架の声が響いた。さすがに驚きを禁じ得ない様子で、皆の目が、一斉に彼女へ注がれた。
「名探偵、皆を集めて、さてと言い」わざと真面目ぶって、タルホが詠むと、
「いよいよシスター・ブラウン、いや、レディ・メイドのご意見が聞けるわけですな」ピカビアが揉み手をしながらほくそ笑んだ。
臆するふうもなく、同じ姿勢でたたずんでいる美架は、隣で動揺を隠せないイズミと、好対照をなした。会員たちの嘲りを沈黙で受け流し、彼女は口を開いた。
「わたくしはただ、この八角形の部屋が、必ずしも密室とは言いきれないと、申しているだけです」
「というと?」
ツァラが、少々苛立った調子で訊き返す。探偵役を演じさせるために、みずから彼女を呼んでおきながら、演壇から引きずり降ろされたのが、気に食わなかったらしい。権力者にありがちな傲慢さ。
美架はまず無言で、高い天井を指さした。釣られて、会員たちの顔が上を向く。
私はあらためて、我々が「くり抜いた鉛筆の中」にいることを、思い知らされた。頂点からは一本の鎖がぶら下がり、香炉からあやしげな煙が洩れている。何かの薬草を燃やせば、その部屋にいる全員の顔が馬に見えるという、蒼古たる魔法書のくだりが思い起こされた。
壁にはステンドグラスが嵌めこまれ、さらに天窓が、屋根の部分を二重に取り巻いている。ただし、どんな身軽な猫でも、ステンドグラスまで飛び上がることは不可能と思われた。壁から突き出た照明からも距離がありすぎるし、ほかに何の取っかかりもないのだ。
おそらくツァラも、同様に感じたのだろう。皮肉らしく唇を歪めたかと思うと、権力者の余裕たっぷり、彼女に近づいた。
「残念ながら、レディ。あれらの窓は、すべて嵌め殺しになっておりましてね。一匹の蟻も入りこめません。またもし窓が割られるとか、切られるとかした場合、間違いなく警報が鳴り響きます。もっとも、無粋なベルではなく、『幻想交響曲』のワルツですがね」
「けれども、侵入できる可能性がゼロでないことは、お認めになるでしょう」
彼女は言い募り、またツァラの目を険しくさせた。いよいよ謎解きとなれば、ほとんど回り道をしない、日頃の彼女には似つかわしくない発言に思えた。美架といえども、ダダイストたちの集会の異様さに、圧倒されているのだろうか。
「認めましょう。ゼロではないと」
「有り難うございます。これで一歩先へ進めるのです。先ほど、トイバーさまが素晴らしい踊りをご披露なさいましたね」
「皮肉なの?」いかにも「小間使い風情が」と言いたげな口調だったが、あいにく「一介の家政婦」は職業差別に慣れきっている。
「いいえ、心からそう思いました。音楽が鳴り始めると、部屋の照明が落とされ、スポットライトがともされました。ツァラさまの言葉を借りるなら、そのとき、ダンスが行われている間じゅう、『誰にも見られていない人物』が一人おりました」
「私かね?」
ピカビアがそう言い、美架は即座に首を振った。
「スポットライトの後ろにいた、マン・レイさまです」
沈黙。
皆の目は、「光線男」に向けられていた。かれは元来気弱なのか、不可視のライトを浴びたように、ひたすら目をしばたたかせていた。ようやくツァラが口を開いた。
「なるほど。外部からの侵入は可能であった。侵入者は、ライトを操っているマン・レイ氏と入れ替わることができた。どこに本物のマン・レイ氏が消えたのか、想像もつきませんが。ともかくも、仮面で素顔は見えないのですからね。するとレディ・メイド、あなたは、マン・レイ氏が風蘭坊だと断言なさるのですか」




