黄金の聖天 第十六回
トリスタン・ツァラはおそらくわざと、マン・レイがスポットで彼女を照らした後で、部屋の照明を落としたのだろう。真の闇に乗じて、何者かが歓喜天の像に、手を伸ばさないとも限らないから。
音楽はひたすら摩訶不思議だった。アフリカ的なリズムとジャズの即興性に、対位法の数学的厳格さを加味したような……私が一驚したのは、それが中西青司の曲だとわかったからだ。美架が巻き込まれたある事件に、この美貌の若手音楽家がかかわっていたことは、記憶に新しい。
仮面の女が踊っていた。
ときには歓喜する爬虫類のように、ときには瀕死の鳥のように。くねくねと揺れる肉体を、「光線男」のスポットが正確に追う。ゾフィー・トイバーを名のる「貴婦人」が、男たちを一人ずつ巻き込んでゆくさまを。
でたらめなフォックストロットを、タルホと繰り広げたかと思えば、エルンストとあやしげに体を密着させた。デュシャンはかなり寄っているらしく、ゾフィーと手を取り合ったまま、バネ仕掛けのように跳ねあがり、靴の踵と踵を打ち鳴らした。
仮面の男たちが、どっと笑う。
中西青司の音楽は、このあやしげな舞踏に、あまりにも似合っていた。サバトを想わせる悪魔的な無意味さ。会員たちが好き勝手なステップを踏んでも、決して踏み破られず、逆に高々と掬い上げてくるようだ。
ゾフィーはデュシャンを纏いつかせたまま、テーブルの上から歓喜天を取り上げた。皆が目を見張る中、まるで恰好のパートナーを得たかのように、異形の神像をかざして、身をくねらせた。
私は、足もとが崩れるような気がした。
光輪の中で、神像はまるで情念をもつように、暗い光をおびた。仮面の女との背徳的なダンスを、愉しむかのように。
ゾッとするような女の高笑いが響き、ダダの踊りは締めくくられた。会員たちの哄笑がそれに続いた。ツァラがまたリモコンを操作して、部屋の照明をともした。私が眩しさに目を細めるのと、マン・レイがスポットを消すのとが、同時だった。
光にさらされた八角形の部屋には、乱痴気騒ぎの後のもの悲しさが漂っていた。
黄金の聖天は、忽然と消えていた。
マルセル・デュシャンばかりが、一人で笑い転げていた。
「無意味! 無意味! 無意味! じつにまったく何もかもが、無意味であります」
「まさしく」
ツァラが片眼鏡をずり上げた。かれの相槌には、毒々しい皮肉がこめられていた。呂律が回らないまま、デュシャンが言う。
「さて諸君。無意味を極めたところで、私は失礼いたしましょう」
帰るというのだろうか。私はぎょっとしたが、ツァラは取り合わない様子。他の会員たちも、仮面の下で白々とした含み笑いを浮べていた。まだ踊りの熱が冷めやらぬていで、ゾフィーが言う。
「ぜひそうなさって。ああ、つまらない。せっかく最高のパートナーに巡り合えたというのに。本当に私、一億出してもいいと思ったくらいよ」
「なるほど、このままではいかにも、つまらない。せめてもう一人くらい、はめを外せる女性が必要というわけですな」
謎めいた発言のあと、稲垣足穂はただの「視線」であるはずの私に、おもむろに向き直った。
「マルセル・デュシャンが消えて、代わりに第八の会員があらわれる、といった趣向なのですよ」
疑問符の嵐に翻弄されながら、私は言葉もなく立ち尽くしていた。異形の神像はどこへ消えたのか。消えたにもかかわらず、なぜかれらは、何事も起こらなかったような態度を続けていられるのか。そもそも……
第八の会員とは、いったい何者を指すのか? それは女性、なのか。
八角形の部屋に、七つの椅子。会員は八名いるという。
デュシャン氏へ目を移せば、右へ左へよろめきながら、自身の席のほうへ向かっていた。例の試着室に似た「小部屋」の前で立ち止まり、大きくカーテンを開け放ったところで、振り向いた。
意味ありげな笑み。私には、手品師が箱の中身は空だと示すように、わざと振り向いてみせたような気がした。そしてたしかに、小部屋の中には、私が覗き見たとき同様、赤い服と鬘が吊るされているばかりで、何人の姿もなかった。
ふたたび、今度はごくかすかに、音楽が鳴り始めた。やはり、中西青司の曲とおぼしく、一本のヴァイオリンが、いかにも即興演奏といった趣きで、つぶやき続けていた。その曲に合わせたように、咳払いひとつして、ツァラが語り始めた。
「ところで皆さん。薄々勘づかれているとは思いますが、風蘭坊とは私なのです」
沈黙のあと、メンバーたちの唇から、また白々とした笑いが洩れた。
一同を見わたしたあと、最後に挑発的な眼差しが、美架に向けられるのがわかった。彼女はイズミと並んで、姿勢よく立っていた。相変わらずの無表情に、わざとらしくうなずきかけ、ツァラは続けた。
「そうではありませんか。なに、最も初歩的な物理学の問題ですよ。私は学者ではありませんが、最も無意味な学問として、物理学を好みます」
「同感ですな」
つぶやいたのは、一人だけ踊りに加わらなかった、最年長のピカビアだ。
「ええ、簡単な問題です。会員の皆様、一人一人の顔を見知っているのは、私だけなのですから。そうして皆様の顔は、私が入り口で、間違いなく確認させていただきました。のみならず、一度でもこの部屋から出たかたは、一人もいらっしゃいません」




