表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/125

屋根裏の演奏者 第四回

 試験本番には、ほぼ万全を期してのぞめたと思う。青年は、音楽家としてもすぐれていたが、コーチの才能を持ちあわせていた。さすがに多くの修羅場、という名のステージを踏んでいるだけに、本番への心構えは説得力があった。

「ピアノの前に座ったとたん、おそらく頭が真っ白になるでしょう。でも心配いりません。この日のために、十本の指を飼い慣らしてきたのですから。肝心なのは、かれらを信頼することです。信頼して、そして身をゆだねてください。だいじょうぶ、あとは十本の指が、勝手に演奏してくれますから」

 それでも、試験会場でまったく緊張しないのは、不可能というもの。とくに専攻実技の待ち時間は、拷問に等しかった。

 居並ぶ教師たちの前で、次々と試されてゆく受験生たち。中には、途中でぱたりと指が止まってしまい、何度弾き直しても先へ進めず、泣きながら部屋を出てゆく者も、けっこういるのだ。

 自身の番が来て、ピアノの前に座ったときは、青年の予言どおりの状態になった。竜也は、「呼吸法」で息をととのえると、失敗を恐れず、動き始めた指に身をゆだねた。自分が弾いているという感覚は、まるでなかった。

『テンペスト』は、当を得た選曲だった。家庭教師に勧められて、タイトルのもとになった、シェイクスピアの戯曲も読んだ。

 嵐の中を、右に、左に揺れながら漂う船。大声を張り上げる船員たちの声も、風の音に掻き消されて、届かない。船は、プロスペロウの魔法によって、孤島へ引き寄せられているのだ。暗い空を、風妖エアリエルが不気味に舞う。ヒロイン、ミランダが岸壁に立ち、髪をなぶらせながら、海を眺めている……

 気がついたときには、演奏を終えていた。ベストを尽くしたんだという、充足感だけが残っていた。

  ◇

 今年の桜は開花が早く、愛知県では三月に入ったとたん、莟が一斉にほころび始めた。

 下宿選びで、ひと悶着あったことは、すでに述べた。「緑館」を選ぶにあたって、家庭教師の体験談が、おおいに参考になった。かれもまた、緑館で四年間を過ごしていた。

「あの下宿は、音大生にしか貸さないんですよ。大家さんが、音楽に理解ある人でね。部屋でどんなに音を出しても、構わないと言ってくれている。そのかわり木造だから、防音はないに等しいんだけど、そこはお互いさまさ。むしろ仲間意識が生まれて、淋しがりやのぼくなんかには、賑やかで好もしい環境でしたよ」

 男子の下宿生どうしは、お互いの部屋を、まるで自身の部屋のように、行き来していた。ときには、女の子も含めた下宿生が集まって、楽器を持ち寄り、歌う者もいて、不意のセッションが始まった。竜也はそんな話を、目を輝かせて聞いた。

 問い合わせると、緑館にはまだ、一室だけ空き部屋があった。

 東京へは何度も遊びに来ていたが、郊外で暮らすのは、初めての体験だ。そこは立川市の北の果て。中央線からも外れており、鄙びた印象はぬぐえない。きらびやかな渋谷の繁華街を体験しているだけに、同じ「東京」の、この落差には驚かされる。

 よく聞けば、先輩たちは都心へ出るとき、「東京へ行く」などと言っている。どうやらこの辺りは多摩であって、東京ではないらしい。もっとビルがにょきにょき生えているのかと思った、とは、山口県から出てきた同級生の女の子のセリフ。

 玉川上水駅前の桜は、すでに葉桜に代わりつつあった。竜也は、そんな郊外の風景を好もしく眺めた。

 あまり人が多いのは苦手だし、都心に出たければ、ちょっと電車に乗ればよい。オリエンテーションで顔をあわせた同級生たちと、受験のときの話で盛り上がった。家庭教師の名を口にすると、たちまちかれの周りに、人だかりができた。

 何もかも好もしく、何もかもうまくいっているように思われた。ただ、家政婦が来ることを除けば。

(きっと、肥ったおばちゃんなんだろうな)

 肥ったおばちゃんが『めぞん一刻』のエプロンをつけて、山のように料理を作り、もりもり食べろ、もりもり食べろと勧める夢に、何度かうなされた。伯母ということにしてもらおうか、などと、外聞を取り繕う対策を練ったりした。

 やっぱりどこまで逃げても、例の罪悪感はつきまとうものだ。音楽家の名前なんか、口にすべきではなかった。自身の実力と努力で合格したのだ。当初はそう、信じていたけれど、高揚感が薄れるにつれて、また例のやつが、顔を覗かせる。

「まさか、裏口入学じゃないだろうね」

 冗談めかした口調で尋ねながら、速くなっている鼓動に気づいた。

「金は用意しておいたが、使う必要はなかった」

 父親もまた、笑いながら答えたけれど。

 緑館の一〇一号室にやって来た家政婦は、肥ったおばちゃんではなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ