黄金の聖天 第十一回
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部屋を出る頃には、雨が上がっていたので、傘はもたなかった。午後十時を少し回ったところ。麻布十番駅の出入口で、彼女は待っていた。
「荷物は何もないの?」
「ええ。そうするように、言われておりますから」
考えてみれば、美架と待ち合わせて外で会うことなど、めったにない。いつもどおりの、濃紺のワンピースというクラシックないでたちに。なぜか紫のフレームの眼鏡をかけているが、視力はかなりいいはずなので、伊達だろうか。
「ツァラ氏から、直接連絡があったのかい?」
並んで暗闇坂へ向かう。雨の匂いがしているが、歩道は濡れていない。美架は、うつむき加減のまま、なんだか寝起きらしい声を出す。
「異国ふうの訛りのある、男性の声でした。私の電話番号は、派遣所も知らないはずなのですが」
サングラスの大入道の姿が、私の脳裏をよぎった。
「で、手荷物は持ってくるなと?」
「必要な着替えは、すべて用意するそうです」
「ボディ・チェックを兼ねて、なのだろうね」
暗闇坂を上る途中、車が何台か追い越していった。先週より、少し時間が早いのだ。大使館の前で待っていると、いわくありげなヘッドライトの灯りが、忍び寄ってきた。
先週と同じ車から、同じ大入道が降りて、黒い布きれを手渡した。バックミラー越しに、視線を痛く感じた。目隠しを装着し終えるまで、決して発車しないのだろう。
「手伝っていただけますか。髪がじゃまをして、うまく結べません」
BMWの、やけに広い後部座席で、彼女は私に身を寄せてきた。眼鏡が上着のポケットに素早く、すべりこむのを感じた。それにしても、女性に目隠しを装着するなど、生まれて初めての体験である。かすかにリンスの香りが残るショートヘアの上から、革紐をきゅっと締めるときは、淫靡な背徳感を禁じ得なかった。
真の闇の中で、車がすべりだした。
何気なくポケットに手を入れると、眼鏡とは別に、何か硬いものに指が触れた。ドライバーの、柄だろうか?
今回はごく小さく、音楽が聴こえていた。ワーグナーの『ラインの黄金』とおぼしく、水中のシーンをあらわす不安定なオーケストラが、眩暈を誘うようだ。完全な部外者である彼女を警戒して、車外の音を消すために、流しているのかもしれない。
「フランボウは、フランス語で『炎』を意味しますね」
だれに言うともなく、美架がつぶやいた。大入道に、たしなめられるかと、びくびくしたが、かれは無言のまま。次に彼女は、あからさまに話しかけた。
「お尋ねしますが、火星クラブの会合が始まる時間は、いつも同じなのですか」
車の震動をとおして、動揺が伝わるのがわかった。まさか話しかけられるとは、思っていなかったらしく、また、対処法もマニュアルにないのだろう。しばしの逡巡のあと、醜い精霊アルベリヒのバリトンに混じって、ぼそぼそと声が響いた。
「必ずしも一定ではございません。その都度、会員の皆様のご都合に合わせて行いますが、おおよそ日付が変わる時刻を外れることは、ございませんでした」
几帳面に答えたのは、やはり私には意外だった。たたみかけるように、美架は尋ねた。
「いつ頃から、クラブは発足されたのですか」
「一年ほど前からでございます」
「七名いらしゃると聞いておりますが、クラブのメンバーは、発足当初から一定しているのでしょうか」
沈黙があった。苦しげな息づかいが聴こえるような気がしたが、それはラインの乙女たちに嘲弄される、アルベリヒの苦悶だったのかもしれない。
「申し訳ございませんが、会員様に関するご質問には、一切、お答えできかねます」




