黄金の聖天 第九回
トリスタン・ツァラたちのグループを、チューリヒ・ダダと呼ぶ。ダダの語がここで生まれ、雑誌『ダダ』が発行され、かれらの溜まり場、キャバレー・ヴォルテールにおいて、奇怪な衣装をつけての詩の朗読や、音楽、ダンス、仮面の舞踏など、ダダ的乱痴気騒ぎが展開された。
一九一八年、第一次大戦終結の年、ツァラは『ダダ宣言1918』を発表する。破壊と否定の大仕事をなしとげるのだと、高らかに謳ったこの宣言は、世界へ波及してゆく。
この宣言に感動したフランス人が二人いた。一人はニューヨークおよびバルセロナで雑誌を発行していた、画家のフランシス・ピカビア。そしてもう一人がパリの詩人、アンドレ・ブルトンである。
ピカビアによって、ニューヨークにもたらされたダダ運動は、「あの」マルセル・デュシャンやマン・レイを巻き込んでゆく。デュシャンはすでに、レディ・メイドと称される、自転車の車輪を椅子にくっつけたような「作品」を発表していたので、素地はできあがっていた。かれらをニューヨーク・ダダと称する。
またブルトンは、ツァラの詩の影響のもと、雑誌『文学』を発行するかたわら、ピカビアと図って、ツァラをパリへ招く。なかなかみこしを上げなかったツァラも、一九二〇年にパリにあらわれ、ここにパリ・ダダのグループが形成された。
敗戦国、ドイツに目を転じれば、廃墟と化したベルリンで、いち早くダダの種が根づき、萌え出ていった。政治的色彩の濃い、ベルリン・ダダであり、後にヒットラーによって、退廃芸術とみなされ、とどめをさされる。
さて、パリのダダイストたちは、ツァラを迎えて盛り上がり、旺盛な活動を展開する。中でも大規模だったのが、シャンゼリゼ通りに近いガヴォー・ホールを借りて行われた「フェスティバル・ダダ」である。これには、物見高いパリっ子たちが押しかけ、幕が上がると同時に、あまりに背徳的かつナンセンスなステージのため、大混乱となった。
満員の観客は激怒し、生卵やトマトや腐りかけたオレンジを、ダダイストたちに向かって投げつけた。要するに、大成功だったのだ。
けれども、フェスティバルが繰り返されるうちに、しだいに毒が抜かれてゆき、客もおとなしい見物人と化した。また、ツァラとブルトンの間の反目は次第に深まり、ついに一九二三年七月に開催された、「ひげの生えた心臓の夕べ」において、決定的な決裂をみた。
上演中にブルトンたちが乱入して、暴力沙汰を起こしたのだ。これがパリ・ダダの終焉とみなされ、ブルトンはシュールレアリスムへと、活動をシフトチェンジさせてゆく。
「だからブルトンは、嫌われているのですか」
ゴマ油のよい香りが、部屋に広がっていた。美架は縮んだ豆腐をフライパンに並べ、両面を香ばしく焼いて、また皿に戻した。
やはり食わせるつもりらしい。
「ダダにとって最重要人物なんだけど。けっきょく、シュールレアリスムがダダを、乗っ取ったように見えるからね。実際、ダダはものすごく短命で、一九二〇年代半ばには、事実上“終わって”いた。けれどシュールレアリスムは、第二次大戦後も、綿々と運動が引き継がれた。勝新太郎の大ファンだったという、画家のバルテュスを思い出してもよいだろう」
「おおよそ理解できました」
さっきのフライパンで、彼女はベーコンを炒めはじめた。多めの油の中でちりちりにする、持ち技のひとつ。それからゴーヤと一緒に、例の魔術的な調味料を投入した。
「それは何?」おそるおそる尋ねた。
「塩麹です。麹に水と塩を混ぜて、ねかせただけですが。例えば生の魚の切り身にこれをまぶして、冷蔵庫に放置しても、一週間は腐りません」
同様に二週間放置された豆腐が、フライパンに戻された。それらを炒め合わせると、最後にとき卵が投入され、ざっと掻きまぜれば、勅使河原流ゴーヤチャンプルのできあがり。
「食えるの?」
失礼な質問に背を向け、彼女は取り皿を用意した。毒杯を前にしたソクラテスの気分で、私は箸を口へ運んだ。
「あ、旨い」
豆腐が引き締まって、水っぽくないのが効いている。また独特な甘みと酸味が加わり、深い味わいが醸される。
「お食事になさいますか?」
「いや、まだ続きがあるんだ。つい、ダダの説明が長くなってしまったけど。風蘭坊という泥棒が、盗みを予告してきたところまでは、話したよね」
「フランボウ……」
堀川同様、それがフランス語でもあるかのように、彼女は発音した。
「ブラウン神父シリーズに出てくる、怪盗の名前をもじったのでしょうか」
言われてやっと気づいた。どこかで聞いた名だとは、思っていたのだが。
説明するまでもないが、ブラウン神父はイギリスの作家チェスタトンが生み出した、連作推理短篇集の名探偵である。童顔の小男で、いつも傘を置き忘れるおっちょこちょいだが、ひとたび事件が起これば(巻き込まれれば)、ホームズなみの推理力を発揮する。外見とのギャップなど、タイプ的に、勅使河原美架と似ていなくもない。
彼女が指摘したとおり、フランボウはシリーズに登場する怪盗で、何度も神父と対決しては、そのつど敗退している。ついに神父に諭されて改心し、私立探偵に商売替えして、ブラウン神父と共闘するようになる。
ここで私は、唐突に本題を切り出した。
「じつはきみに、この風蘭坊と対決してほしいという、依頼が入っているんだ」




