黄金の聖天 第七回
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翌々日、私はまた堀川に呼び出された。
麻布にある「風博士」という名の喫茶店は、裏通りにひっそりと店を構えており、平日の遅い午後ともなれば、他に客の姿はほとんどない。ちなみに堀川が麻布に住んでいるのは、永井荷風に私淑してのことだが、六本木辺りに第二の「偏奇館」を建てるわけにもゆかず、麻布十番駅にほど近い、マンション暮らしである。
火曜日の夜のできごとは、とても現実とは思えない、不可思議な夢のように感じられた。だから、こうしてまた堀川の口から、「火星クラブ」の名を聞かされたとき、自身の夢を覗かれたような、奇妙な不安を覚えた。
「不自然だとは思わんかね」
盛大な炎を吐くライターで、煙草に火をつけながら、堀川は言う。不自然といえば、何もかも不自然なのだが、私は黙っていた。
「メンバー全員が、聖天像を見ただけで、それと察したことさ。きみやおれみたいな好事家が知っているのは、さておくとして、ありゃ仏像としても、かなりマイナーな部類だぜ。なのに、あのゾフィーとかいう女でさえ、かなり動転していたじゃないか」
「ガネーシャなら、インド料理店にも飾ってあるでしょう」
「しかし、男女が抱き合った像となれば、話は別だ。知ってのとおり、密教においても異色の秘仏で、祈祷を行うときでさえ、円筒形の入れ物に入れて、決して人前には出さん。それほど恐れられているわけだが、恐ろしい神であることを、かれらは全員知っていた」
意味ありげに言葉を切ると、大きな口から煙を一度に吐き出した。私の前のコーヒーは、すでに冷めかけていた。堀川は続けた。
「ちょっと調べてみたんだがね。伊藤博文がそうらしい」
「えっ?」
「昔の千円札に刷られていた、長州出身の初代内閣総理大臣だよ」
「それはわかりますけど。伊藤博文がどうかしたのですか」
「歓喜天の信者だったのさ」
急に咽の渇きを覚えて、私はコーヒーカップを口へ運んだ。キリマンジャロの酸味が口の中へ広がると同時に、「何でも願いが叶う」という言葉が、不気味なインパクトを帯びて反芻された。
聖天は、きわめて祟りやすい神である。けれども、ひとたびその力を得れば、あらゆる願いが叶う。死者を蘇らせることさえ、できたという。しかし、あまりに願いが叶うため、その代償は恐ろしく、子孫七代の運を使い果たすとか。あるいは自身が成功の後に、悲惨な末路を遂げると言われる。
伊藤博文は、内閣総理大臣の地位までのぼり詰め、ハルビンで暗殺された。堀川は語を継いだ。
「まだまだいるぞ。江戸時代を代表する大富豪といえば、紀伊国屋文左衛門。かれも聖天信者だった。それから、三井財閥の元を築いた三井高利。さらに、川崎造船の創業者、川崎正蔵もそうだ。ほかにも枚挙に暇がないが、酒井くん、おれが何を言いたいかわかるかね?」
「つまり、現在も政界や財界の大人物の間で、密かに聖天信仰が行われている……」
あの夜、ツァラがかざした神像が、脳裏で暗い輝きを帯びた。異形の神。象頭の神は、「生きている」というのか。
戦慄をともなう沈黙が過ぎていった。気がつくと、堀川が二杯めのコーヒーを頼んでいた。
「きみのぶんもだよ。ところで酒井くん、きみは風蘭坊について、どれくらい知っている?」
フランボウ、と、かれは発音した。新聞の片隅で、その名を見た記憶がある。アルセーヌ・ルパン気取りの、泥棒であるらしい。盗みの前に、必ず予告状を突きつける。変装の名人である。ただ、仕事の規模は決して大きくなく、並み居る警官隊を出し抜いて、高笑いしながら気球で逃走したりといった、派手な盗みはやらかさない。
ゆえに、マスコミに大きく取り上げられることもないが、狙った獲物は必ず盗み、かつ、一度も逮捕されたことがないとか。堀川は言う。
「まあ、小利口なこそ泥といったところだが。警察やマスコミの目をかい潜るのが、非常に巧くてね。じつは昨日、デュシャンくんに会ってきたのだが、このたびも、火星クラブは通報しない方針らしい」
「なぜです」
「決まってるじゃないか。聖天像の出所を、警察に探られたくないからさ。メンバーの素顔が公けにされるのも、いやがるだろうし。風蘭坊もまた、そこに目をつけたのさ。ときにきみ、まだ彼女とは付き合っているのかね」
私は目をしばたたかせた。一介の貧乏文士である。十年来、配偶者はおろか、愛人だとか彼女だとかいう女性とは、一切、縁がない。目の前で堀川は、もどかしそうに煙草を揉み消した。
「ほら、北鎌倉の密室殺人の謎を解いたとかいう。何といったっけな。珍しい苗字だったと思うが……」




