屋根裏の演奏者 第三回
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藤本竜也は家政婦を雇うことに、かなりの抵抗を示したようだ。
自身の家が裕福であることに、かれはずっと、一抹の罪悪感を抱いてきた。かれの両親は派手好みで、豪邸に住み、軽井沢に別荘をもち、メルセデスを半年で乗りかえる。道玄坂の「億ション」をはじめ、都内にも数棟のマンションを所有している。幼い頃より、竜也が洋服から文房具にいたるまで、最高級品を買い与えられたことは言うまでもない。
小学校に入る少し前、遊びに行った友人の部屋で、かれは机の上の鉛筆削り器を発見した。ハンドル式のいかついデザインは、まるでSFアニメに登場する戦闘機械のようだった。
「買ってもらったんか?」
「入学祝いやて」
友人は、カバーを前方へスライドさせると、鉛筆を穴に入れ、ハンドルを回してみせた。その「カッコよさ」に、竜也はすっかり魅されてしまった。帰宅後、さりげなく父親に話題をふると、すでに買う手はずはととのっていると言う。
「ハンドル式のやつ?」
おそるおそる尋ねたものだが、一番いいやつだと、面倒くさそうに請け負われた。今にして思えば、すべて秘書任せだったのだろう。ランドセルよりも学習机よりも、竜也はただ、鉛筆削り器が届くことを、心待ちにしていた。けれども実際にやって来たのは、小ぢんまりした、電動式の新型だった。
それでも、両親との仲は良好だった。基本的に放任主義で、これといった束縛もされていない。何といっても、一人息子のかれは、たいせつに育てられた。
だから、たいせつにされることで、傷ついている自身を意識したときには、驚きもし、納得もいった。裕福な家の子であることが、自身にとっては束縛なのだと気づいた。
「自由になりたかったんですよ」
屈託のない笑顔で、かれは美架に言ったものだ。
「でも自由になりたければ、たとえば国公立の大学に入って、奨学金をもらったり、アルバイトをしながら勉強するのが、本当なんですよね。ぼくには、そこまでやる勇気がなかった。中途半端なんですね。けっきょく親に、高い学費を払わせているのですから」
理数系が、かれの鬼門であったようだ。歴史が好きで、日本史ではよく満点をとったものの、数学の補修の常連でもあった。これではとても、センター試験にのぞめない。また、三歳の頃からピアノを「習わされて」おり、幼い頃は「女みたいで」、厭でしょうがなかったが、いつしか、
「ピアノなしでは、生きられなくなっていました」
好きになると、俄然、意欲がわいてくる性格。根が努力家であり、また質の好いグランドピアノを、夜遅くまで弾きまくれる環境も相まって、腕はめきめきと上達した。とはいえ、東京藝術大学に入れるほどの自信はない。そこで必然的に、私大の中では難関とされる、桐越音大が選ばれた。
まだ高三になったばかりだったので、準備期間は充分ある。さっそく父親がコネクションを発動させて、桐越出身のピアノ教師を雇ってきた。大手レーベルからCDを出すほど、意気盛んな青年演奏家だった。
「指は生き物です。きみの意志とは関係なく、動きます。蠢く、といったほうが適切かな。きみはこれから、指という十本の生き物を、飼い慣らす訓練を行わなければなりません」
真っ直ぐな前髪を、華奢な指で掻き上げるのが癖で、どこか若い頃の坂本龍一をおもわせた。
『六声のリチェルカーレ』を弾いてもらったときには、目を見張った。文字どおり、六つの旋律が同時に奏でられるフーガで、難曲の多いバッハの鍵盤曲の中でも、屈指の難曲。それがまるでダンスミュージックのように、目の前で軽やかに、少しも間違わずに演奏されるのだ。まるで十本の指によるサーカスを見ているようだと、竜也は考えた。
「自由曲は、これにしますか?」
問われて、初めて演奏が終わっていることに気づいた。ようやく冗談の意味がわかり、あわてて首をふった。
桐越音楽大学の入試に必要なのは、専攻実技とソルフェージュと学科、おまけに小論文と面接まである。が、最も重視されるのは、もちろん専攻実技である。課題曲と自由曲が課されており、課題曲は夏休み前に発表されるという。学科は国語と外国語のみなので、「理数音痴」の竜也にはありがたい。
「藤本くん、音楽は立派な理数系ですよ」
青年ピアノ教師は、笑いながら髪を掻き上げたものだが。
かれと相談して、自由曲はベートーヴェンのソナタ第十七番を選んだ。いわゆる『テンペスト』ソナタである。竜也にとっての「受験勉強」は楽しいものとなった。好きなピアノをいくらでも弾ける。それが「勉強」なのだから、大腕を振っていくらでもできる。
たしかに何度も壁に突き当たり、悩みもしたが、そんな壁や悩みさえ、楽しく感じられた。克服する意欲がわき、克服したときの、得もいわれぬ喜びがあった。




