黄金の聖天 第三回
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店の外に出たとたん、空気がねっとりと、肌に貼りつくようだった。雨を孕んだ空に、街の灯が赤黒く反映していた。
「この近くなのですか?」
堀川は無言で首を振った。麻布十番駅に背を向けると、六本木方面へ、どんどん歩を進めた。ダークグレーのスーツの背中は異様に幅広く、猫背である。
渋谷などと比べれば、人通りはずっと少ない。そのうち何割かが、外国人である。こんな時間に十歳くらいの女の子を連れた、西洋人男性とすれ違った。
私が振り返らずにいられなかったのは、その女の子が、闇の中でも鮮やかな赤い靴を履いていたから。
猫背が左へ折れると、いきなり闇に包まれた。ここが「暗闇坂」と呼ばれていることは、後で知った。
歩道に挟まれて、車がやっと一台通れる程度。右側に崖が張り出しているため、うっそりと暗いのだ。堀川は無言のまま、俯き加減で坂を上り始めた。
すれ違う人影はない。車も通らない。すでに私は、狸に化かされているのかもしれない。坂の途中で、不意に堀川が足を止めた。左側に、煉瓦色の巨大な建物が、闇にうずくまっている。
「オーストリア大使館だ」
煙草をくわえて、ライターを擦りながら、かれは独り言のように、つぶやいた。先程の美少女が、私の脳裏にフラッシュバックされた。異人館。さらわれてきた少女。ダダイストたちによる、真夜中の会合……
「まさか、ここで?」
「そんなわけがないじゃないか。間もなく迎えが来る」
言い終わらぬうちに、坂下から、ヘッドライトの灯りが近づいてきた。ハイブリッド車なのか、ほとんどエンジン音が聴こえず、不気味である。
黒いBMWが、私たちを少し追い越し、大使館の門の前で止まると、左側の運転席のドアが開いた。ひと昔前の「運転手」の身なりをした男は、制帽を目深に被っていた。肩の張った、いかにも屈強な大男で、ほかに誰も乗っていないようだ。大男は、ゆっくりと私たちに近づいてきた。堀川が煙草を投げ捨てた。
制帽を取って一礼した。男は、スキンヘッドに、サングラスをかけていた。暗闇坂で大入道と行き逢ったと言えば、とある家政婦が、さぞかし面白がるだろう。私たちが後部座席に乗り込むと、ドアを閉める前に、男は布きれのような何かを、ぬっと差し出した。
「私が合図するまで、ご着用願います」
目隠しである。しかも、本格的な革製のシロモノだ。思わず堀川に目を遣ると、すでに「ご着用」に及んでいた。変態を絵に描いたような、限りなく不穏な姿で。
車がスタートした。あくまで震動が少なく、エアコンが効きすぎているせいもあり、ひんやりとした石室に、閉じ籠められたようだった。
車は何度か停車しては、また走り始めた。カーブのたびに、体が宙に浮く気がした。真の闇の中の移動は、時間と空間の感覚を狂わせる。車内は始終、静まり返っていた。ラジオは切られており、運転手は一言も喋らないし、私たちもまた無言のまま。
尋ねたいことは、いろいろあったが、みずから沈黙を破る勇気は、とてもなかった。それにあの騒々しい堀川が、無言でうずくまっていることも、不気味さに輪をかけた。二十分後くらいだろうか。あるいは、もっと永かったかもしれないが、車が停車した。サイドブレーキを引く音に、ぎょっとさせられた。
「到着しました。どうかアイマスクはそのままで」
ほんの僅かだが、西洋系の訛りが感じられた。間もなく、脇のドアが開けられ、何者かが私の手をとった。軽くて柔らかい、女の手……?
再び外気が、ねっとりと絡みついてきた。衣擦れの音。芝生を踏む感触があったが、革の目隠しは微塵も光を透さない。靴が、硬い音をたて始めたので、建物の中に入ったことが知れた。
何度めかのドアを抜けたところで、ふっつりと手が離された。息苦しいほどの、不安。
「どうぞ、目隠しをお外しください」
運転手の声は、ずいぶんくぐもって聴こえた。髪が乱れるのも構わず、勢いよく外した。薄暗い小部屋には、私たち二人のほかに誰もいなかった。
簡素な木製の椅子が七脚と、小テーブルがひとつ。テーブルの上に照明があり、奇怪な形をした容器の中で、蝋燭が一本だけ燃えていた。
何気なく近づいて、ぎょっと足を止めた。蝋燭を包む容器は、髑髏だった。




