屋根裏の演奏者 第二十四回(解答篇ノ二)
竜也と紅葉は、覚えず顔を見合わせた。お互いの表情に、驚愕の色が見てとれた。それから強いて打ち消すように首を振ると、かれは反論した。
「それは考えられないよ、勅使河原さん。前にも話したとおり、ヴァイオリンという楽器はアマティの時代から、ほとんど変化を遂げていないんです。オリジナルとモダンが異なるといっても、クラリネットとサックスほどには違わない。むしろ演奏技術的には、古楽器のほうが難しいんだから、現代ヴァイオリンだって、弾きこなせるはずですよ」
彼女はゆっくりとうなずき、
「ええ。ただ、藤本さまに教えていただいたように、バロック・ヴァイオリンは現代のものと比べて、弦が強く張られております。また使われている弦も、スティールが主流です。どうやら林晴明くんは、これで指を切ったことがあるようです」
「指を?」再び紅葉と、驚きの目を合わせた。
「中西青司さんとお会いしたときに、お聞きしました。よくコンクールの審査員をなさるという話でしたので、ひょっとしたらと思ったのですが。中西さんは、二年前、高校三年生だった林くんのことを、よく覚えていました。それは地方が主催する進歩的なコンクールで、林くんは、ヴァイオリニストとして出場しました」
「それじゃあ、林はもともと……」
「ヴァイオリンを弾いていたのです。それもおそらく、ほとんどバロック・ヴァイオリンばかりを、弾いてきたものと思われます。張力の弱い、羊の腸から作られたガット弦を用いて。ところがそのコンクールでは、現代ヴァイオリンを使用するよう、規定されていました」
「コンクールで、指を切ったのですか?」
目をまるくして、紅葉が尋ねた。美架はまた、ゆっくりとうなずいた。
「バッハのシャコンヌを演奏中に」
三たび、竜也と顔を見合わせたあと、紅葉が言う。
「怪我をしたときの恐怖が尾を引いて、授業では、現代ヴァイオリンが巧く弾けなかったのですね」
「デタケンが何も言わずにニヤニヤしていたのは、林が本当は高い演奏技術を持っていると、見抜いていたからなのか」
「かれが一年浪人しているのも、ヴァイオリンからピアノへと、専攻を替えるためでした。そこにどれほどの苦悩や葛藤があったのか、私には察しかねますし、同情する資格すら、持ち合わせておりません」
かれはヴァイオリンを弾く腕を、みずから封印したのだろうか。それでも器楽表現論の授業を受けた日は、悔しさや憤りのせいか。それとも、曲がりなりにも、ヴァイオリンに触れてしまったことが原因か。深夜零時を打つ頃、疼きに耐えられず、封印したはずのバロック・ヴァイオリンを、ケースから取り出さずにはいられなかったのだろう。
悪魔に、憑かれたように。
(おれはただの失敗作なのか?)
ぽつりと、美架が付け足した。
「そのコンクールの優勝者もまた、シャコンヌを弾いたといいます」
「えっ? まさか、あの駅前のヴァイオリン弾きが?」
「そこまでは、私にも確かめようがありませんでしたが、可能性はあると思われます。もし指を切らなければという思いが、二人の胸の内に、あったかもしれないことも」
どれくらい、黙りこんでいただろう。紅葉がカップを置く音が、かれをもの思いから呼び返した。
「天井裏の目の問題が、まだ残っていますよ。演奏がふっつりと途切れたあと、何者かが天井の上を這っていたのは事実なんです。あれも、林なんですか」
美架は大きく首を振り、眉をひそめた。
「林くんではありません。シャコンヌが途切れたときと、紅葉さんの悲鳴が聴こえた時間との、間隔が短すぎますから、そもそも不可能です。あれこそが、アスモデウス」
「悪魔だと言うんですか? ヴァイオリンに憑いていた……」紅葉は目をしばたたかせた。
「ある意味、そうかもしれません」
薔薇の匂いが、強く香った。
マイナーコードじみた戦慄が、何度も背筋を貫くに任せる以外、竜也はどうすることもできなかった。美架は、静かに語を継いだ。
「紅葉さんの悲鳴を聴いたあと、私は密かに時計塔へ向かいました。音をたてないようにドアを開け、螺旋階段をのぼりました」
錆びて、いくつもボルトの外れた螺旋階段は、一歩ごとにひどく揺れた。それでも「悪魔」に気づかれなかったのは、頭上でたてるもの音のほうが、大きかったからだろう。その音は、明らかに慌てていた。下から覗きこんだ機械室は暗かったが、時計を外した跡が、巨大な月のように、円く浮かんで見えた。
「月」の中には、おぞましいアスモデウスの影が、くっきりと嵌めこまれていた。悪魔は緑館の大家、長峯の顔をしていた。




