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屋根裏の演奏者 第二十二回

 紅葉はバスローブを羽織って座っている。若い貴婦人といった印象であるが、濡れた髪や、ともすれば、はらはらするほど開く胸もと。さほど長くもない裾など、それ以外は何も身につけていないという、圧倒的な事実も相まって、どうしてもかれを、落ち着かなくさせた。

 天性のコケット、とでも呼ぶべきものか。彼女自身は、濡れた髪を拭こうともせず、うなだれているが、その様子さえ、どんなに否定しようとも、よこしまな欲望を、掻きたてずにはいなかった。えーと、と前置きして、竜也は言う。

「気のせいじゃないかな」

 首を振って、彼女はまともにかれを見た。潤んだ目の中に、まだ冷めやらぬ恐怖の痕跡が宿っていた。

「変な音がしたの。それで、顔を上げたら、あれと目が合ったのよ。間違いないわ」

「ちょっと調べてみようか。まさか、もういないと思うけど」

 うなずくのを見届けてから、かれは立ち上がった。その背中に貼りつくように、紅葉は着いてくる。浴室とトイレは別々で、ドアを開けると、香料だけが原因とは思えない、甘い香りが、湿った熱気とともに、押し寄せてきた。竜也は瞬時、眩暈を覚えるほど。

 通常のワンルームと比べて、天井ははるかに高く、身長一七三センチの竜也が手を伸ばしても、まだ二〇センチほどの隙間が生じた。換気孔は、直径二〇センチ足らずの円形で、普通、このすぐ裏に換気扇があるため、「目」があらわれるはずはないのだが。

「なにか、細長い、棒みたいなもの、あるかな」

 紅葉が台所から調達してきたのは、菜箸だった。背伸びしながら、それを換気孔の隙間に挿しこんでみたところ、するすると吸いこまれた。

 換気扇と、天井の換気孔との間には、かなりの空間があるのだ。無言のまま、二人は居間に戻った。

「音がしたと言っていたよね。ヴァイオリンの音は、聴かなかったかい?」

「シャワーを使っていると、あんまりわからないけど。でも、わーん、反響しながら、音がずっと鳴っていたわ。先週と同じように。あれが、ヴァイオリンだったのかしら」

「おそらく。ね、喚起孔に目があらわれたとき、ヴァイオリンの音は続いていたかい?」

「途絶えた後よ」

 紅葉の悲鳴が聴こえたのは、まさに、ヴァイオリンの音が、ふっつりと途絶えた直後だった。

 竜也は頭を整理するため、重複を厭わず、これまで見聞きした事項を話した。水曜日の深夜十二時、シャコンヌの音が聴こえてくるのは、一〇三号室からであること。ところが、住人の林晴明は、決して部屋に他人を入れず、また自身もヴァイオリンが弾けない、少なくともあれほど巧みには弾けないこと。そうして、駅前の演奏者のこと。

「もし、時計塔の中から屋根裏へ入れるとすれば……」

 あのヴァイオリン弾きが、晴明の部屋ではなく、その屋根裏で弾いていたのではあるまいか。どういう理由があったのかわからないが、顔を合わせたときの反応からして、かれと晴明とは、顔見知りである可能性が高い。

 そうして、これも理由は不明だが、晴明の叫び、「おれはただの失敗作なのか?」という声を聴いて、演奏が中断された。慌てていたのか、闇の中で方角を間違えて、時計塔とは逆の、紅葉の部屋の方へ向かってしまった。

「こう考えると、一応の筋は通るかな。なぜ駅前の演奏者が、屋根裏に入りこんでまで、シャコンヌを聴かせたがったのか。林に対して、何か遺恨でも持っていたのか。それとも、ヴァイオリンの件で落ち込んでいる林を、叱咤激励する意味でもあったのか。それはわからないけれど」

 沈黙が訪れた。電車が終わると、「東京」とは思えないほど、この辺りは静まり返る。ようやく竜也は、家政婦がなかなか戻らないことが、気になり始めた。それとも、すでにかれの部屋で待っているのだろうか。なぜか不意に、彼女がつぶやいた一言が、思い起こされた。

「アスモデウス」

 悪魔の名だという。そいつが現れなければよいがと、彼女は懸念していたっけ。紅葉に目を移すと、恐怖と驚愕の入り混じった表情が、ありありと浮かんでいた。

「知っているの?」

「旧約聖書の外典に出てくる、好色な悪魔の名前よね。スペインに伝わる話では、家々の屋根を剥ぎ、私生活をあらわにする者と言われているわ」

 どうやら紅葉は、怪奇・幻想系の話題に強いらしい。本棚に目を遣ると、並んでいる澁澤龍彦の本が、いやでも目についた。ほかにも、魔法書の翻訳だとか、タロットカードの解説書だとか、ドイツロマン派の選集だとか。彼女の好みが、はっきりとあらわれていた。

 屋根を剥ぐ者……屋根裏の闇で蠢く、耳の長い男の姿が、どうしても脳裏を離れなかった。冷たい戦慄を、忍びやかなノックの音がなぞった。

 紅葉は、びくりと怯えたが、その叩き方には覚えがあった。竜也が迷わずドアを開けると、思ったとおり、勅使河原美架が立っていた。

「お二人とも、藤本さまの部屋へいらしてください。真相をお話しいたします」

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