屋根裏の演奏者 第二十回
タートルネックの長袖シャツに、ジーンズ。どちらも黒で、身にぴったりと添っていた。髪は、頭の後ろで、きゅっと纏められ、これも黒い、薄手のスカーフが、顔半分を覆っていた。まるで、ニンジャである。
笑っては気の毒なので、どうにか堪えて部屋に入れた。可笑しさが去ると、いつもの古めかしいエプロン姿からはうかがえない、意外に豊満な体のラインが、気になり始めた。彼女はスカーフを外し、台所に立とうとした。
「あ、だいじょうぶですよ。お構いなく」
我ながら、変な言い草だとは思ったが、そういえば、美架が「客」としてこの部屋に来るのは、初めてと言える。どぎまぎしつつ、竜也は尋ねた。
「さっそく青司さんに、逢われたんですね」
「お聞きになったのですか?」床に座り、かれを振り仰いだ。
「八時頃でしたか、『勅使河原さんと歓談中』というメールが届きました」
「一介の家政婦にも、快く時間を割いてくださいました。思慮深い人柄とお見受けしました」と、まるで皇族のコメントのような。
中西青司は気鋭の新進音楽家であるが、いわゆる芸能人と比べれば知名度は低い。歌ばかりがもてはやされる音楽業界において、器楽家の地位は一向に上がらない。しかもかれは、いわゆる歌謡曲を、決して手がけようとしなかった。アレンジや作曲の依頼に、応じないのである。
そんな中西のことを、「一介の家政婦」はよく知っていたものだと、あらためて思う。時計に目をやると、十一時四十五分。
「悪魔の幻影を見たと、そう仰言いましたね」
「幻影? ああ、初めてあの演奏を聴いた時、たしかに。どうやらヴァイオリンには、悪魔のイメージが付き纏っているようです」
「少し、お聞かせ願えますか」
竜也は苦笑しつつ、肩をすくめた。よほど怪談噺が好きなのか。
「アマティやストラドに劣らず、人気の高い名器として、グァルネリ・デル・ジェスが挙げられます。十九世紀前半に活躍したイタリアの名演奏家、パガニーニが『カノン砲』と名づけて、愛用した楽器です。荒削りだけど、パンチの効いた音が出るのでしょうね。ところでこのパガニーニですが、悪魔に魂を売った男という評判だったのです」
どうやら昼間の「講義」以来、話が巧くなった気がする。竜也は語を継いだ。
「それはパガニーニが駆使する、超絶技巧が原因だったようです。十九世紀に、エディ・ヴァン・ヘイレンがタイムスリップした感じでしょうか。またかれはミステリアスな美貌の持ち主で、ナポレオンの妹をはじめ、多くの女性と浮き名を流しました。死後は教会に睨まれて、どこにも埋葬させてもらえず、棺の中で三十六年間も放浪することを余儀なくされています」
「興味深いですね。演奏家のファウストですか。かれが愛用していたデル・ジェスはどうなったのですか」
「死後は博物館へ直行したようです。生前から、自分以外のだれにも弾かせないと言っていたので、かれの望みどおりになったのですね。デル・ジェスとは、救い主、キリストを意味しますから、それを悪魔が弾いていたというのも、皮肉なのですけど。あと、タルティーニの『悪魔のトリル』なんかも、ヴァイオリンと悪魔のエピソードとして有名ですね」
「夢の中で悪魔が演奏した曲を、譜面に写したのでしたか……じつは私も、悪魔の幻影を見たのです」
驚きの目を向けた竜也に、この日の午後、駅前で謎の演奏者によるシャコンヌを聴いたときに生じた幻影について、彼女は話した。聞き終えて、竜也は溜め息を洩らした。
「似ていますね、ぼくの見た幻と」
「はい。ただ、私の幻の場合、謎解きが可能なのです。駅舎が変化した、時計塔のある大聖堂。異国風だと感じましたが、中世ヨーロッパのロマネスク様式だと考えるべきでしょう。傾きを正し、月光に染められた蒼をぬぐって、巨大な時計を嵌めこみますと、これは実在する建物と、そっくりになります」
「あっ」
アマティやストラディヴァリ、グァルネリを生み出した、クレモナの大聖堂だ。
隣のドアが閉ざされる音が、意外な大きさで響いた。いつもどおり、北村紅葉がアルバイトから戻ったものらしい。もの音とともに、『ぶってよマゼット』の旋律が、かすかに洩れてきた。不意に、美架がつぶやいた。
「アスモデウス」
「えっ」
「悪魔の名です。そいつが現れなければよいのですが。では、そろそろ参りましょうか」
すっと、彼女は立ち上がった。十二時五分前になっていた。




