屋根裏の演奏者 第二回
いったい彼女は、どんな「怪談」を語ろうというのか。わけがわからないまま、押し売りの撃退が特技という、美架の異様な迫力に圧倒された恰好である。
「墓の中から、聴こえてくるとか?」
私の軽口は、たちどころに黙殺された。
「ヴァイオリンの音が聴こえてくるのは、アパートの一室で、そこにはちゃんと人が住んでいます」
「何の不思議もないじゃないか」
「いいえ。なぜなら、その部屋の住人には、バッハが弾けないそうです」
「客が来て弾いているだろう」
「来客の形跡はなかったといいます」
「へえ……」
紅茶を口へ運んだ。
「興味深いね」
ありふれたダージリンも、彼女の手にかかると、謎めいた味に変わる。少しずつ煮詰まってゆく、エキゾチックなトマトソースの香りの中で、いつしか私は、美架の独特な語り口に、引き込まれつつあった。
◇
四月から、彼女は毎週立川市へ通っていた。音楽大学生の両親の依頼であり、私の場合と同様、その日だけ、掃除と食事の面倒をみる仕事だ。
最寄り駅は、西武拝島線および多摩モノレールの、玉川上水駅だ。じつをいうと、私はいまだに勅使河原美架の所在地を、つかめずにいるので、彼女がどういうルートで通うのかわからない。家政婦派遣所があるのは、八王子市だから、やはりJR八王子駅から八高線で拝島へ行き、そこから拝島線に乗りかえる姿を、想像するほかない。
中央線で立川まで出て、モノレールに乗るほうが楽なのだが、おそらく美架なら費用面から、前者を選ぶだろう。
降りるのは南口である。学校は駅の北側だが、依頼者の男子大学生のアパートは、南口を出てすぐ左手の、住宅地に紛れている。かれの名は、藤本竜也という。今春入学したばかりの、桐越音楽大学一年生である。
「お洒落で、清潔で、線が細くて。音大生ということもあるのでしょうけど、いかにも今どきの若者ですね」
そこまで歳が離れているとも思えないが、美架はまるで老婆のような所見を述べた。
竜也が住んでいるのは、「緑館」という名の、いささか古風な木造のワンルームだった。
「緑館……どこかで聞いたような」
「かつて江戸川乱歩が経営していた、といいますか、奥さんに経営させていた下宿と同名ですね」
「しかし、ワンルーム住まいの学生が、よく家政婦を雇えたものだ」
私の口調には、嫉妬の響きが籠もっていたかと思う。それは学生という、あくせくした経済活動から免除された身分への嫉妬であり、また若さへの嫉妬でもあったろう。いまだに私が、うだつの上がらない、三文作家であることを考え合わせれば、なおさらに。
「お金持ちなのですよ、竜也くんの実家は。豊田市に、かなりの土地を持っているみたい。そもそも、ある程度経済的に余裕がなければ、音楽大学へは入れませんもの。四年間で、いったいどれほどの学費が必要か、ご存知ですか?」
「私大なら、ふつう五、六百万ってとこかな」
「音大になると、およそ一千万です」
「うへえ」と、思わず変な声が出た。
しかし、金持ちならば、何も好きこのんで木造のワンルームに入らなくとも。あの辺りなら、ピカピカの新築マンションが、いくらでも建っているだろうに。そんな疑問を美架はたちまち読んでしまう。
「竜也くんがご両親に頼んだそうです。近所付き合いができないから、オートロックのマンションはいやだって。その交換条件として、週に一度、家政婦を通わせることを、承諾させられたみたいです」
「私なら喜んで、オートロックの城に閉じ籠もるが」
ところが、仲間たちとの有意義なコミュニケーションを求めて越してきた、桐越音楽大学一年生、藤本竜也は、間もなく隣人が変人ぞろいであることを、知らねばならなかった。