屋根裏の演奏者 第十八回
彼女が晴明を実際に見たのは、これが初めてだが、とても、ほかの人物とは思えなかった。長身で、怒り肩。額の広さが目立つ短髪。銀縁の眼鏡の後ろで、瞳が大きく見開かれている。オレンジのダンガリーシャツに、擦り切れたジーンズは、昨今のお洒落な大学生とは、隔絶された感がある。
演奏者の表情に、驚きが宿るのを美架はみとめた。けれど、凍りついたように立っていた晴明が、一歩踏み出したとたん、演奏者は慌しくヴァイオリンをケースに詰め込んで、身をひるがえした。
人を押しのけるようにして、エスカレーターを駆け上がってゆくかれを、けれど晴明は追おうとしなかった。
「知り合いなのか?」
竜也の質問に、呆然と首を振った。とりつくしまのない、とは、このことだ。何事かを、ぶつぶつつぶやきながら、かれは急ぎ足で、玉川上水に沿った緑道のほうへ去ってしまった。緑館へ戻るつもりか、散歩にでも行くのか、わからないけれど。
◇
「藤本さま、もしよろしければ、私にヴァイオリンという楽器について、少し講義していただけますか」
紅茶が入ると、あらたまった口調で、そう言うのだ。
「その、さまって言うの、やめてくれます? それに講義ができるほど、ぼくも詳しくないですよ。専門外ですし」
「ひととおりは、学ばれたのでしょう。受験の家庭教師をされたかたに」
竜也の顔が、たちまち晴れやかになるのがわかった。
「そうです。中西青司という人なんですけど」
「あの、クラシックをジャズっぽくアレンジしたCDを出している?」
「よくご存知ですね。青司さん、この間から東京に来ているんですよ。コンクールの審査員に、借り出されたとかで。もっとも先生、地元と行ったり来たりで、一年の三分の一は、こっちにいるみたいですけどね」
「私がお逢いしても、差し支えないでしょうか」
「そんなにファンだったんですか? いいですよ。メールアドレスをあとで送ります。勅使河原さんのことは、すでに話してありますから」
快活そうに言うと、竜也は紅茶を口へ運んだ。どうやら講義してくれる気に、なったものらしい。
「北イタリアに、クレモナという小さな街があります。十六世紀から十八世紀にかけて、この街に多くの優れた製作者があらわれ、今日まで名器として君臨するようなヴァイオリンを、次々と生み出しました」
「ヴァイオリンは、いつ頃、現在のような形となったのでしょう?」
「十六世紀なかばでしょうか。アンドレア・アマティという、クレモナの製作者によって生み出されたと言われています」
「忽然と?」
「みたいですね。四本の弦に、くびれのある曲線ですとか。貝殻みたいなスクロールに、f字孔ですとか。だれもが思い描く、あの形の楽器があらわれて、ほとんどそのまま現代のオーケストラで鳴らされている」
「ほとんどそのまま?」
「もちろん、シターンやヴィオールのような、元になった楽器はありますが。これはちょっと珍しいケースですね。アンドレアは、後に多くの優れた製作者を輩出した、アマティ一族の始祖です。孫のニコロ・アマティが有名で、一般にアマティといえば、ニコロの作品を指します。そして、かれの弟子の一人が、かの有名な、アントニオ・ストラディヴァリです」
「そろそろ十八世紀に入っていますか」
「ストラディヴァリの最盛期が、一七〇〇年から一七二〇年頃と言われています。一七二〇年といえば、ちょうどバッハが、ケーテンで無伴奏ヴァイオリン曲を作った頃ですね」
沈黙の中、低空を自衛隊のヘリが通り過ぎたようだ。竜也はピアノ椅子に座ったまま、カップを持つ手を、口の前で止めていた。美架が尋ねた。
「駅前で弾いていたのは?」
「ああ、少なくともストラドじゃありませんでした。もちろん、アマティやデル・ジェスでもない。無銘のバロック・ヴァイオリンか、そのレプリカだと思います」
「そこのところが、よくわからないのですよ、藤本さま。林くんは、古楽器による演奏を主張したのですよね。でもヴァイオリンは、十六世紀からほとんど形を変えていないのでしょう? ならば、モダンとオールドの差異は、どこにあるのですか」




