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屋根裏の演奏者 第十七回

 ロータリーが最も深くえぐれている辺り、連絡通路の前方に、その男はいた。

 くしゃくしゃのチューリップハットに、よれよれのシャツ。洗いざらしのジーンズの裾はほつれ、幾つも穴が開いていた。往年のヒッピーを想わせるが、アクセサリーは見当たらず、全体が青ねずみ色に褪せた印象。履き潰したジョギングシューズの前では、ヴァイオリンケースが口を開けていた。

 帽子から食み出した蓬髪。みょうに尖った耳。鷲鼻。顔の下半分を覆う無精髭のため、年齢は定め難いが、せいぜい三十そこそこではないか。猫背気味の姿勢でヴァイオリンを支え、一心不乱に弓を動かしている。その虚ろな目は、周囲のどこも見ていないようだ。

 また、かれを見ようと立ち止まる者もいない。平日の昼間なので、人通りはまばら。だれもが化けものでも見かけたよに、ぎょっと目を向るだけで、足早に通り過ぎて行く。非日常的な事項に係わらないよう、まず避けて通るのが、日本の習か。

 仲間も”彼女”も見当たらない。離れたところから、自転車整理のおじさんが、苦々しげに眺めているばかり。美架は再び、男の足もとのヴァイオリンケースに目を移した。中に小黒板が挟んであり、白墨で殴り書きしたように、こう記されていた。

「J・S・バッハ 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第二番 ニ短調 BWV1004」

 目を合わせると、竜也は真顔でうなずいてみせた。第三楽章のサラバンドが終わり、ほとんど間をおかず、第四楽のジーグがおごそかに鳴り響いた。竜也が囁く。

「ぼくが通りかかったときは、まだ第一楽章でしたから、勅使河原さんを連れて来られると思ったんです」

 怯えたような調子がこもった。まるで一人で聴いているのは、耐え難かったとでもいうような。

 演奏者は相変わらずどこも見ておらず、たった二人の「聴衆」にさえ、一瞥も与えない。派手なアクショこそないが、いにしえの自動人形にも似た動きは、何やら異形めいた印象を投げかけた。

 そうしてかれの演奏技術は、素人の美架が聴いても、超一級と思われた。

 いつの間にかジーグが終わっており、駅の雑音が、意識された。蒼たる中世の街並から、たちまち現代に連れ戻された気がした。今度は少し間があった。演奏者は糸巻に手をかけ、調弦を修正した。再び顎当てに顎を載たところで、初めてこちらを見たた。

 蛇を想わせる。なんて冷ややかな眼差しだろう。

 弓が跳ね上がった。最終楽章、シャコンヌの演奏が開始された。

 風景が、また遠ざかるのを感じた。よく晴れた初夏の昼下がり。平凡な日常そのものの駅前の景色は歪み、不定形となり、やがて見知らぬ、けれど潜在意識に刻みつけられている情景へと、変化してゆくようだった。

 蒼い月光が降り注いでいた。

 石畳は色褪せた煉瓦で、隙間からいじけた、名も知らぬ雑草が食み出していた。背後にそびえるのは駅舎ではなく、大聖堂らしかった。ビザンチン様式に近い、どっしりと根を張るような建造物は、けれど時の重みに耐えかねて、全体が傾いていた。

 大聖堂の隣には青い尖塔が、本殿の屋根を越えて突き出ていた。イスラム寺院のミナレットに似た、異国的な塔だ。この塔も無残に傾き、時計が嵌め込まれていたとおぼしい辺りに、円形の真っ黒い穴が開いていた。その闇の深さが、吸いこまれるような恐れをいだかせた。

 傾いた聖堂の前で、弓を操る演奏者の姿は、もはや人のものではなかった。蓬髪から突き出た耳は、月へ向かって伸張し、鼻は唇を覆うほど垂れ下がっていた。ぼろぼろの服は黒く染まり、すべての指には尖った、異様に長い爪がみとめられた。

「似ているんです」

 竜也の声が、耳もとで震えた。見れば、まっすぐに演奏者を見据えた横顔が、蒼白になっていた。

「真夜中に、林の部屋から聴こえてきた演奏と、そっくりなんですよ」

 再び目を向けた。演奏者は、もはや異形のものではなかった。けれど、全身を振るわせるようにして、小刻みなフレーズを弾く姿は、日常から遊離した、異次元の中にあるようだった。

 嘆くように、恨むように、いつしかヴァイオリンは人の声を発し始め、こう訴えているように聴こえた。

 おれは何をしているんだろう? おれは何でここにいるんだろう? おれは何で理解されないんだろう? おれは何をすればいいんだろう?

 おれという人間は……

 演奏が終わっていた。

(失敗作なのか?)

 途中でやめたのか、それとも最後まで弾ききったのか、それすら彼女にはわからなかった。音楽というものが、これほど人の心を奪うとは。やはり音楽にまつわる、北鎌倉での殺人事件が思い合わされて、彼女は戦慄を禁じ得なかった。

「あんた……」

 声をかけられて、演奏者はヴァイオリンをケースに仕舞う手を止めた。その声が、竜也のものでないことに気づいて、彼女は振り向いた。

 いつの間にか、彼女たちの後ろに林晴明が、すっかり蒼ざめた顔で、突っ立っていた。

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