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屋根裏の演奏者 第十六回

  ◇

 チャイムを鳴らして、三十秒ほど待ってから、また鳴らした。部屋の中からは、何の応答もなかった。

 午後一時を少し回ったところ。いつもどおりの時刻であり、時間に生真面目な竜也が、これまでいなかった例はないのだが。彼女は表情を変えず、耳もとで乱れている髪を、軽く手で撫でつけた。

 あたかも初夏である。

 母屋の庭では、薔薇が花ざかりを迎えつつあり、馥郁とした香りが、微風にのって漂ってくる。樹木は鬱蒼と茂っているが、雑草ひとつない、非常に手入れが行き届いた庭。園丁が入っているのを、見た事がないので、大家の長峯が、一人で管理しているのだろう。

 これは竜也にも告げていないのだが、彼女が緑館を初めて訪れたとき、長峯と一度だけ、短い会話を交わしている。「見張っていた」としか思えない素早さで、かれが母屋から飛び出してきたのだ。

「勧誘か何かで?」

 よほど胡散臭い人物に見えたのか。たしかに、少々クラシックなロングスカートのいでたちは、宗教の勧誘と疑われても、おかしくない。にこりともせず、美架は名刺を差し出した。

「藤本さまのご依頼で、家政婦派遣所より参りまいた」

 目の前の男は、長身で、漂白したような肌の色。髪は神経質な正確さで、七対三に分けられている。蛇のような目つき。知識人らしい気品があるものの、体の他のパーツと不釣合いなほど、でっぷりと張り出した腹部が、どうしても目立つ。

「家政婦、か」

 臭いものでもつまむように名刺を受け取り、吐き捨てるようにそう言った。かれが背を向けたとき、手の中で、名刺がくしゃりと、握り潰されるのを見た。

 下宿人にビートルズの曲を歌って聞かせるような、「気さくな大家さん」には、とても見えなかった。

 家政婦の仕事を続けていると、社会には階級というものが、厳然と存在していることを、ひしひしと感じる。社会は決して、平等ではない。

 長峯がどんな経歴をもつのか、知る由もないが、他者にこき使われて、あくせく働いている様子はない。大きな家に終日、独りで籠もっている。金持ちに違いなく、ゆえに階級意識も強いのだろう。下宿の経営は、趣味的なものと思われる。若い音大生の相手をしていたほうが、気持ちが華やぐ。

 ただし、あやしげな家政婦風情に、優しくしてやるいわれはない。

 もう一度チャイムを押してみたが、やはり応答はなかった。

 合鍵は持たされていないので、鞄を提げたまま、ドアの前に立っていた。長峯があらわれる様子はないが、どこからか刺すような視線を感じる。次に一〇三号のドアに視線を移したのは、声が聴こえたような気がしたから。

 そっと鞄を置き、足音をたてずに通路を移動した。扉に耳を押し当てるまでもなかった。呪文のように単調な、けれどあまりにも絶望的な男の声が、はっきりと耳に届いたから。

「おれは何をしているんだろう? おれは何でここにいるんだろう? おれは何で理解されないんだろう? おれは何をすればいいんだろう? おれは……」

 ふっつりと声が途切れたかと思うと、血を吐くような、低いつぶやきが響いた。

「おれという人間は、失敗作なのか?」

 ぱたぱたと駆け寄ってくる足音を聞いたのは、そのとき。長峯かと思い身構えたが、振り返ると、竜也が息を弾ませていた。

「あ、勅使河原さん。遅れた上に、いきなりで申し訳ないけど、足は速いほうですか?」

 美架は二度、大きく瞬きして、抑揚のない声で答えた。

「人並みか、それ以上には」

「じゃあ、ぼくと一緒に、駅まで走ってもらえますか。理由は、行けばわかります」

 言うが早いか、竜也はもう背を向けて走り出していた。ドアの前に置き去りの鞄をかえりみず、彼女も跡を追った。芋窪街道に出ると、ちょうど多摩センター行きのモノレールと、すれ違うところだった。

 前を駆ける竜也は、美架が女であることを忘れたように、一度も振り返らない。内心、よほど動揺しているのだろうが、彼女は彼女で、ちょっとスカートをつまみ上げた姿勢のまま、全く遅れをとろうとしない。

 煉瓦色の歩道を走り抜け、駅が間近にせまる頃、その音が耳に届いた。

 ヴァイオリンの音色だった。

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