屋根裏の演奏者 第十三回
紅葉は、怪訝な表情を見せただけで、それ以上、尋ねてはこなかった。林晴明が聞き耳をたてているかもしれず、通路での立ち話は、案外、部屋の中まで聴こえるものだ。
竜也もまた、話題を変えたい気分だった。
「大家さんは、大学のオケに入っていたと、言っていたよね。何の楽器を担当していたか、わかる?」
家政婦の指摘が、記憶の隅に残っていたのだが、今となっては、どうでもいい質問だと気づいた。ヴァイオリンの音は、決して母屋のベランダから聴こえてきたのではない。
「ホルンよ。よくある、ブラスバンドからの転身ね。コンクールでも健闘していたらしくて、写真を見せてもらったけど、ふふふ。大家さん、すごく痩せているの」
「そうかい」
思わず気のない返事が出た。けれども紅葉は、「怪異」のことなど、もう忘れたかのような調子で、
「別人かと思っちゃった。もともと背が高い人だけどさ。痩せていると、手足が長く見えるのね。英国紳士みたいですね、なんてお世辞を言ったらさ、嬉しそうな顔をして。五、六年前までは、写真の体系をキープしていたんだとか。もう六十歳くらいだろうから、がんばったよね」
ひどく怯えてみせたかと思えば、まったく関係のない噂話に、喜々として興じ始める。女の子はよくわからないと、竜也は思う。
「ヴァイオリンは弾けないのかな」
「さあ、どうかしら。聞いたことないけど」
彼女が自室へ戻るのを見送ったあと、竜也はしばらく、その奥にある、一〇三号室のドアを凝視せずにはいられなかった。そろそろ終電だろうか。駅に電車が滑り込む音が、遠くで聴こえたとき、金属のドアが細めに開き、素早く閉ざされた。
はっきりと、視線がぶつかるのがわかった。
◇
ピアノ専攻には「器楽表言論」という必修科目がある。
「論」と名がついているが、内容は実技にほかならず、要するに教師の気まぐれひとつで、どんな授業にもなるというもの。実際、毎年手を変え品を変え、ユニークな授業が行われてきた。
担当するのは、桐越音大屈指の変人教師、出田建。イデタと読むのだが、学生たちは「デタケン」と密かに呼ぶ。九州は熊本の出身で、興奮すると「~だけん」と訛るところが、この渾名をさらに似つかわしくしていた。
ピアニストとして出発したが、現在は評論家として知られる。音楽雑誌への定期的な執筆のほか、他の新聞雑誌へ音楽のみならず、食い物のコラムまで書き散らしている。時々テレビに顔を出しては、河馬を想わせる赤ら顔と、豪放磊落な笑い方で、視聴者に強烈なインパクトを与えている。
このデタケンの授業が、水曜日の二限めに行われるのだが、今年はいつになく奇をてらわない、「まともな」授業であるという。デタケンの気まぐれに、自分たちはあれほど苦しめられたのに。老いて性格がまるくなったのかと、悔しがる上級生もいたが。
「充分、変な授業だと思うけど」
クラスメイトのつぶやきに、竜也も同意せざるを得ない。
それは八人のグループレッスンで、四対四に分かれて、一方がピアノを、もう一方がヴァイオリンを担当して、ソナタを演奏するというもの。なるほど、それだけ聞けば「まとも」なのだが、どちらを担当するかは、籤引きで選ばれると聞けば、上級生たちも溜飲を下げるだろう。しかも前期の授業をとおして、この担当は固定されるのだ。
ヴァイオリンの演奏経験のない、あるいはほとんどない者にとっては、拷問に等しい授業となる。どうもデタケン、それを密かに愉快がっているフシがある。ちなみに課題曲は、ベートーヴェンの『ヴァイオリンソナタ第九番』イ長調。
いわゆる、クロイツェル・ソナタである。
「どうせ諸君はブンガクなんざ読まんだろうから、言っておこう。トルストイの小説に『クロイツェル・ソナタ』という作品がある。ビートルズの『ヘルター・スケルター』を聴いて気が変になり、殺人をやらかしたチャールズ・マンソンのように、『クロイツェル』に頭を吹き飛ばされて妻を殺した男の話、といえば語弊があるだろうが、修正するつもりはない」
社会学ならともかく、音楽の授業中、チャールズ・マンソンの名を口にする教師が、果たしているだろうか。かれは続けた。
「トルストイはこう書いている。『あのソナタはじつに恐ろしい曲です』『音楽はじつに恐ろしい作用をします』『音楽は自分を忘れさせ、自分の位置を忘れさせます。人間を駆って、自分のものではない、何かしら別の位置に連れて行きます』『この恐ろしい武器が、誰彼の差別なく手に入れられるのです!』」
唖然としている八人を前に、デタケンは河馬のように広い口を、ニヤリとゆがめた。
「これから諸君には、この『クロイツェル・ソナタ』を演奏していただく」




