表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/125

屋根裏の演奏者 第十三回

 紅葉は、怪訝な表情を見せただけで、それ以上、尋ねてはこなかった。林晴明が聞き耳をたてているかもしれず、通路での立ち話は、案外、部屋の中まで聴こえるものだ。

 竜也もまた、話題を変えたい気分だった。

「大家さんは、大学のオケに入っていたと、言っていたよね。何の楽器を担当していたか、わかる?」

 家政婦の指摘が、記憶の隅に残っていたのだが、今となっては、どうでもいい質問だと気づいた。ヴァイオリンの音は、決して母屋のベランダから聴こえてきたのではない。

「ホルンよ。よくある、ブラスバンドからの転身ね。コンクールでも健闘していたらしくて、写真を見せてもらったけど、ふふふ。大家さん、すごく痩せているの」

「そうかい」

 思わず気のない返事が出た。けれども紅葉は、「怪異」のことなど、もう忘れたかのような調子で、

「別人かと思っちゃった。もともと背が高い人だけどさ。痩せていると、手足が長く見えるのね。英国紳士みたいですね、なんてお世辞を言ったらさ、嬉しそうな顔をして。五、六年前までは、写真の体系をキープしていたんだとか。もう六十歳くらいだろうから、がんばったよね」

 ひどく怯えてみせたかと思えば、まったく関係のない噂話に、喜々として興じ始める。女の子はよくわからないと、竜也は思う。

「ヴァイオリンは弾けないのかな」

「さあ、どうかしら。聞いたことないけど」

 彼女が自室へ戻るのを見送ったあと、竜也はしばらく、その奥にある、一〇三号室のドアを凝視せずにはいられなかった。そろそろ終電だろうか。駅に電車が滑り込む音が、遠くで聴こえたとき、金属のドアが細めに開き、素早く閉ざされた。

 はっきりと、視線がぶつかるのがわかった。

  ◇

 ピアノ専攻には「器楽表言論」という必修科目がある。

「論」と名がついているが、内容は実技にほかならず、要するに教師の気まぐれひとつで、どんな授業にもなるというもの。実際、毎年手を変え品を変え、ユニークな授業が行われてきた。

 担当するのは、桐越音大屈指の変人教師、出田建。イデタと読むのだが、学生たちは「デタケン」と密かに呼ぶ。九州は熊本の出身で、興奮すると「~だけん」と訛るところが、この渾名をさらに似つかわしくしていた。

 ピアニストとして出発したが、現在は評論家として知られる。音楽雑誌への定期的な執筆のほか、他の新聞雑誌へ音楽のみならず、食い物のコラムまで書き散らしている。時々テレビに顔を出しては、河馬を想わせる赤ら顔と、豪放磊落な笑い方で、視聴者に強烈なインパクトを与えている。

 このデタケンの授業が、水曜日の二限めに行われるのだが、今年はいつになく奇をてらわない、「まともな」授業であるという。デタケンの気まぐれに、自分たちはあれほど苦しめられたのに。老いて性格がまるくなったのかと、悔しがる上級生もいたが。

「充分、変な授業だと思うけど」

 クラスメイトのつぶやきに、竜也も同意せざるを得ない。

 それは八人のグループレッスンで、四対四に分かれて、一方がピアノを、もう一方がヴァイオリンを担当して、ソナタを演奏するというもの。なるほど、それだけ聞けば「まとも」なのだが、どちらを担当するかは、籤引きで選ばれると聞けば、上級生たちも溜飲を下げるだろう。しかも前期の授業をとおして、この担当は固定されるのだ。

 ヴァイオリンの演奏経験のない、あるいはほとんどない者にとっては、拷問に等しい授業となる。どうもデタケン、それを密かに愉快がっているフシがある。ちなみに課題曲は、ベートーヴェンの『ヴァイオリンソナタ第九番』イ長調。

 いわゆる、クロイツェル・ソナタである。

「どうせ諸君はブンガクなんざ読まんだろうから、言っておこう。トルストイの小説に『クロイツェル・ソナタ』という作品がある。ビートルズの『ヘルター・スケルター』を聴いて気が変になり、殺人をやらかしたチャールズ・マンソンのように、『クロイツェル』に頭を吹き飛ばされて妻を殺した男の話、といえば語弊があるだろうが、修正するつもりはない」

 社会学ならともかく、音楽の授業中、チャールズ・マンソンの名を口にする教師が、果たしているだろうか。かれは続けた。

「トルストイはこう書いている。『あのソナタはじつに恐ろしい曲です』『音楽はじつに恐ろしい作用をします』『音楽は自分を忘れさせ、自分の位置を忘れさせます。人間を駆って、自分のものではない、何かしら別の位置に連れて行きます』『この恐ろしい武器が、誰彼の差別なく手に入れられるのです!』」

 唖然としている八人を前に、デタケンは河馬のように広い口を、ニヤリとゆがめた。

「これから諸君には、この『クロイツェル・ソナタ』を演奏していただく」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ