瓶詰めの蝶々 第七十九回(解答篇ノ六)
私は覚えず、壁画へ目を向けた。塀の上の不気味なハンプティ・ダンプティが、哄笑しているような錯覚を覚えたから。
「素晴らしい。素晴らしいと、言わせていただきますわ。見知らぬひと、賢いあなたに、最高の賛辞を!」
最後の小部屋への入り口。長方形に切り取られ、赤く染められた逆光の中に、女のシルエットが浮かんでいた。
薄手の長衣を纏い、長い髪を少女のような、お下げに編んでいるのがわかった。
台詞めいた言葉と相まって、どこか舞台上の一場面を、見せられているような気がした。背後から彼女を照らす緋色の光が、なおさら非現実的な印象を強めていた。
緋色の……?
「井澤……絵梨子」
喘ぐような、高木の声を聞いた。
絡みつくような熱気と、圧倒的な薔薇の香り。天井を叩き続ける雨音の奥から、どさりと何かが崩れる音が響いた。
しだに高まりつつあった忌まわしい予感は、高木の一言で現実に確定された。
「火を、放ったのですか」
薄い翅のように長衣をなびかせて、喜ばしげに女は答えた。
「この雨ですもの。それにちょうど、配置換えが行われるとかで、日頃より警備が手薄になっておりましたわ」
「それで、花の香りを」
「火を放てば、おのずから香を焚いたように、木材がローズの香りを発しますの。この家の異様に大きな屋根は、迷路画廊が焼き尽くされるまで、雨から火を守ってくれるでしょう」
「まるで……」
つぶやいた美架へ、女は視線を向けたようだ。シルエットの中から、野獣のように光る眼差しが飛んだ。
「とても賢いひと。あなたのお察しの通りですわ。鏡の家は、最後に焼け落ちることによって完成する、リチャード・カッシングの作品です。時空をゆがめ、呪っても呪っても、呪いきれないこの世への抗議を造形し続けた、かれの憎悪の結晶です」
炎が、あざ笑う無数の妖物の舌のように、彼女の背後にあらわれた。耐え難い熱風が吹き込む中、絵梨子は微動だにしない。
高木が進み出た。
「わからない。おれにはわからないんんだ。なぜ、なぜなんだ? どうして由井崎怜子を殺した? どこに殺す必要があった? きみはカッシングの作品に憑かれていたのか。画家を愛していたのか?」
戸口から、彼女は一歩身を引いた。そこで初めて、薄手の衣が隙間なく、拡大された蝶の翅の模様で覆われていることに気づいた。
熾天使のように、四枚の羽を交差させて……!
「愛していた? 憎悪しか知らない男を、わたくしが愛していたと、そう仰言るのですか?」
口籠もる高木の後ろで、美架がきりきりと、眉根を寄せるのを見た。絵梨子は続けた。
「もしわたくしがかれを愛していたとすれば、それは憎悪と見分けがつかなったでしょう」
「憎悪ばかり」
美架の声に応じて、絵梨子は妖艶な笑みを浮かべた。
「ええ、世の中には、そういった人種がおります。憎むことしかできない、そんな狂った人間が! わたくし独りではないことを教えてくれたのは、狂気の画家、リチャード・カッシングでした」
「あなたたちにとって、憎み合うこととは?」
緋色の火影を頬に浴びながら、彼女は首を振った。狂気じみた笑みは、心なしか、静謐な微笑に変わっていた。
「やめましょう、賢いあなた。これ以上何を語っても不毛です。愛も憎しみも、不毛であるのと同じように。どちらも何も生み出しはしません。破壊以外の、何も」
「でも、由井崎怜子さんは……」
「カッシングを愛しておりました。愛によって何事かが生み出される。そんな行為を、意味のある行為であると、信じていたようです。画家の絵を売却することに、最後まで抵抗したのも、あの子なんです」
「だから?」
高木の声に、怒気が含まれるのを初めて聞いた。絵梨子は静かに首を振った。
「やめましょうと、申したはずです。そんなことが、動機になると思いまして? わたくしも、あの子も、そして櫻井も、意地の悪い眠りネズミが作り出した幻影。暗い井戸の底で蠢いていた、架空の三姉妹に過ぎませんわ。狂気という名の、糖蜜を嘗めながら」
あっ!
誰が叫んだのかわからない。
次の瞬間、井澤絵梨子は、渦を巻く炎の中に飛び込んでいた。
熾天使のような、四枚の蝶の羽をひるがえして。
そのとき初めて、片方の翅をもがれて、地の底をのたうち回っていた一匹の蝶が、真紅の輝きの中に、昂然と羽ばたいてゆくのを見た気がした。




