瓶詰めの蝶々 第七十五回(解答篇ノ二)
「紅葉さんは、そのことに気づかなかった?」
私は思わず声を上げた。小須田という若い刑事も、同じことを叫んだようだ。美架はゆっくりと振り返り、瓶のある小部屋を指さした。
「もし中から何者かが出てきた場合、紅葉ちゃんは気づいたでしょう。このことは、警部補もご自分で試し、彼女の口から何度も確認されたとおりです。ですが……」
「後ろから様子をうかがい、背中ぎりぎりから、瓶のある小部屋へ忍び込むことは……できた」
苦しげな声で、堀川が言う。高木は無言で、火のない煙草を口の端にくわえ、眉根を寄せた。小須田が上ずった声を上げた。
「では、犯人はずっと、第一発見者の後をつけてきたというのですか。しかし、そんなことは」
「もちろん可能です。けれども」
「そうだ。けれども、人を殺すことはできない」
もの想いに耽るように、高木が言う。美架は軽くうなずいた。
「そうです。なぜなら由井崎さんは、この時点ではまだ、殺されていませんでしたから」
私の意識が瞬時、遠のいた。被害者が、生きていた?
「しかし、遅くとも数分後に、ほんの目と鼻の先で、彼女は死体で発見されているのですよ。それも、撲殺された上で瓶詰めにされるという、無残な方法で」
小須田の言うとおり、気づかない筈がないのだ。それほど大がかりな殺害行為が、すぐ横に開いたドアの向こうで行われていたとすれば、いくら絵に夢中になっていたとしても。
「わたくしも面識がありますが、紅葉ちゃんは繊細な神経の持ち主で、聴覚も鋭い子です。ですから当然、気づいたと思います。もし実際にそのとき、殺人が行われたのだとしたら」
雨足が強まり、ばらばらと屋根を叩く音が虚ろにこだまを返した。増大する疑問に耐えかねて、私は尋ねた。
「きみはこう言いたいのかい。“発見”された時点で、殺人はまだ行われていなかったと」
「はい」
「じゃあ、紅葉さんが見たものは、いったい?」
卑弥呼のような動作で、彼女は私のほうへ向き直った。黒い服の背後に、巨大な瓶の中の水が、蒼く、ぼんやりと浮かんで見えた。
「犯人です」
雷鳴が頭上で鳴り響いた。
この場にそぐわない、甘い香りが、どこからともなく漂ってきたのは、そのとき。気づいたのは、私だけではないようで、高木が怪訝な顔を上げ、美架もまた目をしばたたかせた。花ざかりの薔薇園を想わせる匂いだった。
「香、ですね」美架がつぶやく。
「ここでは、よく焚かれるのですか」
「いいえ、初めてですね。構わないから続けてください、勅使河原さん。後で調べさせます」
「いったいその犯人とは、誰なんですか?」
落ち着いた高木の態度に業を煮やしたように、小須田が急き込んで尋ねた。彼女はまた軽くうなずいただけで、瓶のある小部屋へ向かった。
そこだけライトが当てられていなかったため、足を踏み入れて、初めて左側の壁の壁画に気づいた。前方の壁へ向かって、うんと手を伸ばした金髪の少女の後ろ姿。壁の上からその手を掴もうとしている、今にも転げ落ちそうな“卵男”。
テニエルによる有名な『鏡の国』の挿絵を模したものだが、カッシングの筆にかかると、異様に物狂おしい気配を帯びる。暗がりの中から、卵男の眼がぎょろぎょろと動きながら、私たちを眺め廻しているような錯覚におちいる。
紅葉が死体を発見した当時、この絵は隠されていたのだ。高木の指摘によって出現したものの、かえってかれを敗北させる結果となった。なぜそのことが敗北に繋がるのか、私たちにはわからなかったが。
根気よく、小須田が食い下がる。
「北村さんが死体を発見した時点で、まだ犯行は行われてなかった。彼女が見た死体は、だから犯人が演じていたものだ。あなたはそう言いたいのですね」
「はい。警部補」
壁画から美架へ、高木は視線を移した。
「あなたはこの絵の出現によって、衝撃を受けましたね」
「はい」
「それはこの壁画が、あなたがここにあると確信していたものへの、痛烈な皮肉となっていたからでしょう」
「その通りです」
間近で語り合う二人の声が遠くから聴こえるほど、私は上の空になっていた。頭の中で、一人の女に関する疑惑が、古拙な童謡のようにぐるぐると渦を巻いていた。
……犯人が被害者を演じた。
……被害者の右肩には、蝶の刺青があった。
……右肩に蝶の刺青のある女は、被害者のほかにもう一人いる。
……その女は、
「警部補、あなたの考えでは、犯人は“彼女”でなければいけませんでした。“彼女”が犯人であるためには、ここに“それ”がなければいけませんでした」
唄うような、彼女の口調で我に返った。高木がゆっくりと、口の端から煙草を引き抜くのが見えた。
「勅使河原さん、私は壁画の代わりに、ここに何があると信じていたのでしょう?」
まるで画中のアリスと同じように、片手を伸ばして壁画に触れながら、美架は言った。
「鏡ですわ」




