屋根裏の演奏者 第十二回
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嘆くように、恨むように、弦の音は続いていた。
金縛り、とはこういう現象を指すのだろうか。竜也にはいわゆる「霊感」はなく、幽霊を信じないではないが、あくまで自身とは無関係な現象だった。ところが今や、かれの全身は硬直し、聴覚ばかりが、時を追って研ぎ澄まされてゆくようだ。
シャコンヌ……およそ三百年前のダンスミュージックが、どうしてこれほど、もの哀しく響くのだろう。真夜中であり、何者が演奏しているのか、皆目わからないせいもあるけれど、時空を超えて、蒼古たるドイツの田舎町に引きずりこまれるような、幻惑に見舞われた。
そこは……歪んだ屋根が重なり合い、ところどころから尖塔が突き出ている。蒼ざめた空に、かすみがかかった、大きな月が浮かんでいる。月の周りを、いくつかの黒いものが飛んでいる。鳥やコウモリではなく、箒にまたがった醜怪な魔女たちが、ぼろぼろの黒衣をはためかせながら、飛ぶのである。
弦のすすり泣きは続いていた。
尖塔のひとつには、時計が、斜めに歪んだまま、かろうじて嵌まっていた。文字盤はひび割れ、針には蔦が絡みつき、十二時を指したまま、永久に時を止めていた。屋根の上では、やはり黒づくめの何者かが踊っていた。
蓬髪がからんだ山羊の角。刃物のように尖った耳。銀色の目をした大男が、ヴァイオリンを弾きながら、尖塔の頂点で踊っているのだった。
(音源がどこにあるのか)
昼間の家政婦の声が、不意に脳裏によみがえった。金縛りが解けていた。
立ち上がって耳を澄ませたが、天井から降ってくるようでもあり、隣の部屋で鳴っているようにも聴こえる。躊躇している暇はない。あと五分ほどで、演奏は終わるだろう。意を決して立ち上がると、玄関に出て、ドアをそっと開いた。心なしか、夜気が陰々と身に染みるようだ。
音を立てないように扉を閉め、一階の通路に立った。壁につけられた、古風な鋳物の常夜灯が、ぼんやりと灯っていた。ヴァイオリンの音は、少し遠のいたように感じられた。おそらく野外では、ほかのもの音が干渉するせいだろう。貯水槽のモーター音から、玉川上水駅の、雑多なもの音まで。
それでも弦の音は、確かに奥……時計塔のほうから聴こえてくる。竜也は塔の基部へ向かって、ゆっくりと歩を進めた。紅葉の部屋の前で足を止めると、換気扇が回っているのがわかった。軽くノックしてみたが、応答はない。さらに通路を進んで、一〇三号室のドアの前に立つ。
演奏が聴こえてくるのは、このドアの向こうからだ。
驚きに打たれながら身を放し、通路から外れて、よろよろと庭まで後退った。見上げると、二階に並ぶ三つのドアも、無機質に閉ざされたまま。時計塔ばかりが、異様な生き物のように、三角屋根に葉叢を絡ませていた。
小刻みに震えつつ、嘆きを搾り出すようなフレーズのあと、第一主題が繰り返された。演奏が、終わりかけている。竜也は急いで通路へ戻り、扉に耳を押しあてた。もはや疑う余地はない。そう感じたとき、演奏はふっつりと止んだ。静寂の中で、怯えきっている自身に気づいた。
チャイムを鳴らそうとして、指をとめた。次にノックしようとした手も、やはりドアを叩くには到らなかった。部屋の中からは、とくに何のもの音も聴こえてこない。するうちに、時計塔の屋根にかかる葉叢が、ざわざわと音をたてた。ぎょっとして見上げると、風もないのに、真っ黒い梢が、かすかに揺れているのがわかった。
銀色の目をした男が、そこで踊っているようで、とてもこれ以上、夜気に身をさらしていられなかった。自室へ逃げ帰り、素早く鍵をかけた。建物は古いが、ドアは金属製に取り替えてある。ようやく人心地がしたところで、チャイムの音が響いた。
心臓が口から飛び出さなかったのが不思議である。
「さっきノックしたの、藤本くん?」
北村紅葉の声を聞きつけて、ドアを開けたときも、まだ動機が治まらないまま。彼女は黒い夜着をまとい、髪がしっとりと濡れていた。リンスの好い香りがした。
「聴いたかい?」
我知らず、泣きそうな声が出た。きょとんとしている紅葉に、弓を弾くゼスチュアを見せると、ようやく理解した様子。
「えっ、今夜も? 私、シャワーを浴びていたから……そういえば、何か擦れるような音がしているなとは、思ったけど。ヴァイオリンだったの」
黒い、ブラジャーの紐が見えている、夜着の紅葉を部屋に上げるのも気が引けるので、その場で今の出来事を報告した。紅葉は、そっと通路の奥を覗きこみ、一〇三号室のドアが閉ざされているのを確かめてから、また竜也に顔を向けた。
「けっきょく、弾いていたのは、私の隣の部屋の、林くんだっけ? 怪異でも何でもなかったんだね」
「それがそうとも言いきれないんだ。だってあいつは、絶対に、百パーセント、ヴァイオリンを、あんなに巧くは弾けないから」




