瓶詰めの蝶々 第七十三回
ポーチの上、「別荘」の玄関前に、彫像のように立っている女を見た。
美架と同じような、黒い服に身を包み、飾り気のない、古風な白いエプロンをつけていた。上背があり、私たちを見下ろす切れ長の目が、冷たい殺気を孕むかのようだ。
女の彫像に、まるで身を隠すようにした、異様な風体の男が見てとれた。極度の猫背で腕が長く、蓬髪の下に、痩せこけて皺だらけの顔が覗き、眼光だけを爛々と放っている。
人狼。
という単語を、思い浮かべずにはいられなかった。かれが“トビイ”であり、まだ十七歳の少年だという予備知識がなければ、あの彫像のような女が飼っている、怪物だと信じたかもしれない。
「おれたちのことは、いっさい知らせてないと言ったよな?」
忌々しげに、堀川が高木に耳打ちするのを聞いた。
「貴様に嘘をついて、何の得がある。ああいう女だよ。言ったろう? ここは化物屋敷だと」
その女……櫻井晃子の視線は、ずっと美架を追い続けた。体は微動だにしないのに、なかば閉じているような、瞳だけが動くのだ。一方、美架は我々の後ろでちょっと立ち止まり、櫻井と視線を交わした。
現実に火花が散らないのが不思議だった。
藤本家の別荘を迂回すると、裏手からさらに奥へ辿る小路が、途中で二股に分かれている。一方が「母屋」へ、もう一方が「鏡の家」へと続くのだ。そこに若い刑事が待っており、先に立って歩き始めた。むろん、殺人現場へ向かって。
「ふん。ウェールズ地方を、当てずっぽうに歩き廻ったのを思い出すよ。若い頃の話だがね。ちょうどこんなふうに、山の中から石畳のローマ時代の古道が、ひょっこりあらわれたものさ」
気紛れな調子で堀川は言うけれど、狂気の画家がそのウェールズ地方の出だということを、思い起こさずにはいられなかった。
小路を覆う旺盛な草を足で払いながら進めば、午後になっても消えやらぬ露に濡れて、たちまち靴が光沢を帯びた。
辺りがやけに薄暗くなったのは、頭上をすっぽりと覆う、葉叢のせいばかりではない。野獣の唸り声を想わせる不穏な重低音が、空でとどろいた。
「かしゃ……」
「え?」
美架のつぶやき声に、覚えず尋ね返した。灌木の梢越しに空を眺めて、彼女は言う。
「妖怪の名です。火車は葬儀の日、にわかに嵐を起こして、黒雲の中から死体を奪います。取られるのたいてい、生前に悪行の目立った者で、空中で八つ裂きにされてばら撒かれます」
独り言の延長のような、ほとんど感情の籠もらない声で、語を継いだ。
「天狗のしわざとの説もあるようです」
遠雷が聴こえた。
あれが火車ならば、いったい誰の死体を奪おうというのか。言うまでもなく、鏡の家から、瓶詰めにされた玲子の亡骸はとっくに取り去られている。司法解剖が行われ、ようやく見つかった遠縁の親戚に、引き取られたという。
私は胸を突かれた気がした。カッシングの死体が、鏡の家の中に眠っている? 彼女はそう言いたかったのか。
やがて面前に狂気じみた、茸の化け物のような建物があらわれたとき、足元がふらつくほどの眩暈を覚えた。
「狂ってる……何かが、おかしい」
次元がよじれている、とでも言うのだろうか。
むくむくと広がる黒雲の下、草木の鬱蒼と生い茂る崖の前で、その家は我々が棲む世界と、決して踏み込んではならない世界の間に、ぐにゃりとよじれたまま、嵌め込まれているようだった。
堀川が言う。
「へえ、あの膨らんだ二階に見える部分は、すべてこけおどしの飾りなんだって」
「そうだ。一階の画廊とは完全に遮断されている。正面から見てもわからないが、一階は意外に奥行きがあり、迷路を描きながら、二十メーターほど進むことができる」
高木は美架を振り返った。
「入り口には鍵がかかっており、北村紅葉がそれを開けました。中には瓶詰めにされた、死体だけがありました。我々警察はこの密室の迷路から、いまだ抜け出せずにいます」
また遠雷がとどろき、湿った突風が湧き起こった。木々が不穏にざわめき、ぽつりぽつりと、雨粒が落ちてきた。歪んだ家を見据えたまま、彼女は言った。
「二つの鍵が別々に用いられたという考えは、まず除外させていただきます。カッシング氏の生死にかかわらず、かれによる物理的な影響力を、完全に排したところから、始めなければなりません」
「では……」
「犯人は亡霊ではなく、また目に見えない怪物でもありません。実際に家の中で目を合わせ、話をした者の中にいます。高木警部補、あなたが考えているとおり」
彼女の目はどこか虚ろで、声も普段より、一オクターブほど高く上ずっていた。真相について語り始めるとき、彼女が巫女を想わせる、一種のトランス状態へ移行することに、私は気づいていた。
まともに見据えられて、高木の声は掠れた。
「それでも私は、検証できなかった……可能だと、仰言るのですか。出口のない迷路で人を殺すことが?」
たちまち雨は大粒となり、肩に痛いほど降り注いだ。ざあっと無数の葉叢を叩く雨音の中、歪んだ空間へ引き寄せられるように歩き始めた美架の声が、はっきりと響いた。
「可能です」




