瓶詰めの蝶々 第七十二回
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宝珠寺の近くでタクシーを降ろされた。辺りにパトカーが何台も止まり、虎ロープが張られ、野次馬やマスコミがその前に、大勢たむろしていた。
威張り腐った態度で堀川が名を告げると、すぐに警官の一人が、ロープを持ち上げてくれた。道はまだ舗装されているものの、いきなり勾配がきつくなり、鬱蒼と茂る杉の木の陰に覆われた。
誰に付き添われるでもなく、ものの五分も歩いたろうか。呼吸ひとつ乱れていない美架と反対に、堀川はすでに汗みずくで、咽を喘がせていた。
一台のパトカーが無理に横づけされており、そのかたわらで、堀川と見紛う大男が、独りで煙草を吸っていた。天狗にしては鼻が丸いので、これが例の警部補とおぼしい。
「大学生たちは、今日、家に帰す手筈がついた。行き違いになるのもどうかと思って、きみたちが来るまでは、待たせてある」
堀川の姿を認めると、靴で煙草を揉み消しながら、ぶっきらぼうにそう言った。せせらぎが聴こえるのは、木立の中に細流があるためらしい。病葉を散り敷いた橋が、あやしげに引っかかっていた。
息をつくのがやっとという体の堀川は、さっそく憎まれ口を叩く。
「ここが例の、化け物屋敷かね」
「ああ、せいぜい気をつけるんだな。体が半分になるほど血を抜かれていた、なんてことがないように」
仇敵のように睨みあった後、ぷいとお互い顔をそむけた。首もとを緩めた、よれよれのネクタイ。腕まくりしたシャツ。これにハンチングとサスペンダーでも添えれば、またしても時代錯誤な「探偵」が出来上がる。
「勅使河原さんですね。お初にお目にかかります。警視庁の高木です」
堀川に対するときとは、口調がうって代わり、にこやかに微笑みさえした。疲れきった、という形容そのものの笑顔だったが。
朽葉を踏み分ける音が聴こえ、皆が同時に、橋の向こうへ目を向けた。杉木立の奥に、破風の鋭い屋根が、わずかに覗いたから、あれが藤本家の「別荘」とおぼしい。
間もなく、制服警官のうしろから、音大生たちがあらわれた。「緑館」の事件以来、話題には度々のぼっていたが、私がかれらを実見するのは初めてである。
さすがに三人とも、憔悴の色を隠せない様子。最小限の手荷物すら重たげに、制服警官に率いられた姿は、難民という単語をどうしても思い浮かべさせた。一番丈夫そうな岡田悟に至っては、目の下に黒々と隈を貼りつけていた。
「来てくれたんですね」
藤本竜也が小走りに寄ってきて、手を取らんばかりに美架の前に立つ。今どきの美青年は、かなり「お洒落」だと聞いていたが、髪も乱れがちで、無精髭さえ目立った。
「大変でしたね。電子メールだけでなく、お電話しておくべきでした」
「もう、わかったんですか? 犯人が」
「はい」
迷いのない口調を耳にして、私は今さらながら、目を見張らずにはいられなかった。高木を見れば、かれもまた驚きを隠せない表情で、取り出しかけた煙草が、再び胸ポケットにずり落ちるに任せた。
「少しだけ、北村さんと話させていただけますか」
「あ、はい、結構ですよ……よろしいですか」
高木に促され、無言でうなずいた彼女の姿に、私は大人気もなく胸の高鳴りを覚えた。
噂どおり、彼女は黒い服を身に纏っていた。袖を膨らませたチュニックにフレアスカート。短めのソックスとの間に細い、けれども肉感的な素足が覗いた。襟やスカートを縁どる白いレースに、心掻き乱される思い。真っ直ぐな黒髪が、微風にさらさらと揺れる。
堀川の無遠慮な目つきを見れば、たいていの男たちに、彼女がどう映っているか知れる。いや、男ばかりではないのかもしれない。ともあれ、そんな彼女に秘められた「魔性」が、かつて「緑館」の事件を引き起こしたのだ。
魔物を呼び寄せる恰好で……
「紅葉さん、あなたを“鏡の家”まで案内したのは、間違いなく、井澤絵莉子さんでしたか」
だらしなく見とれていた私は、覚えず声を上げそうになった。
別人だと言うのか?
だとすれば、美架は私と同じ筋道で、推理している可能性が高いではないか。苦しげに眉根を寄せた紅葉は、やがて顔を上げた。疲労しきった感はあるが、毅然とした態度で。
「間違いありません」
「ブルカのようなもので、顔を隠していたのですよね?」
「声や仕草でわかります。たしかにあのとき、私はかなり酔っていたといえます。ですが、半分だけ顔を隠した女性が誰か、見分けられるほどには、冷静だったと信じます」
理論的な話し方をする娘だと、私は思う。美架はそれ以上は追求せず、
「ありがとうございました。どうか、ゆっくり休んでください」
三人が後部座席に乗せられるさまは、やはりどこか護送されているようで、痛々しい。警告灯を灯すでもなく、パトカーが静かに去ると、高木が咳払いした。
「母屋の人々に、あなたがたが来ることは一言も説明しておりません。勅使河原さんからは、ただ鏡の家を見せてくれればよいとの、ご依頼でしたので。私と、あと所轄署の若い者が一人同行しますが、よろしいですか」
「もちろん、構いません」
「それで……」
高木は言葉を濁し、代わりに、いつの間に火をつけたのか、長々と煙を吐いた。彼女は瞬時、自嘲するように目を伏せた。けれども、次にかれを見返した三白眼は、挑発的な輝きを帯びていた。
「ご説明させていただきますわ。密室殺人事件に至る経緯を」




