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瓶詰めの蝶々 第七十一回

  ◇

 八月になった。

 粉唐辛子のせいではないが、昨夜は熟睡できぬまま、浅い夢を見ては、目覚めることを繰り返した。

 堀川秋海からの連絡は早かった。高木は二つ返事でオーケーしたと言い、美架の依頼どおり、ファックスを迅速に送ってきた。

 刺青のアップとはいえ、殺人事件の被害者の写真である。これを第三者に渡したと知れたら、首が飛ぶどころではない。重大な機密漏洩は、けれど警部補の一存で、いとも簡単に遂行されたようだ。

 おかげで、彼女は午後九時を廻らないうちに、私の部屋を出ることができた。

「でもなぜ、あの写真が必要なんだい?」

 彼女が唇を噛むさまを思い出す。もともとよくない顔色が、玄関灯のもと、蝋細工のように蒼ざめて見えた。

「他人の秘密を暴くからには、わたくしなりに、リスクを負う必要があります」

「まさか、きみ自身が、このとおりのタトゥーを入れるというの?」

「たった半日で、彫り上がるものではありませんわ。いずれにせよ、決して警部補には、ご迷惑はおかけしませんから」

 謎を解くと同時に、彼女はとても胸を痛めるかのようだった。「他人の秘密を暴く」行為への罪悪感というよりは、みずからの手で、不思議を現実へと引き戻してしまうことが、苦しいのではあるまいか。

 おそらく彼女ほど、不思議は不思議のままであってほしいと、願っている者はいないのだから。

 午前中いっぱい、美架とは連絡がとれなかった。

 昼すこし前に、私は例によって駒込駅から山手線に乗り、新宿で中央特快に乗り替えた。三鷹を過ぎる頃には楽に座れたので、私は隅の席を陣取り、コンビニエンスストアで買ったサンドウィッチを齧り、缶ビールを飲んだ。これが遅い朝食を兼ねた昼飯になる。

 窓の外は相変わらず、真夏の陽に焼かれていた。なぜ彼女が昨晩、刺青の写真を必要としたのか。今日の午前中いっぱい使って、どこで何をしているのか。考えているうちに、寝不足気味の頭がアルコールでぼやけて、いつの間にか眠りこんでいた。

 隣の席に、美架が座っている夢を見た。

 東京の列車はたいてい対面シートなので、私は故郷のJR線と混同したのかもしれない。彼女の横顔越しに窓が覗き、時おり海があらわれては、フェンスや建物に隠れた。狭苦しい首都の郊外と異なり、のどかだ。

 窓に映る、やはり蒼ざめた顔に、私は尋ねた。

(とうとう昨夜訊きそびれたんだけど、犯人はだれなの?)

(生きた人間では、ありませんわ)

 電車の穏やかな揺れの中で、彼女の声ばかりが生硬に響く。

(死んだ人間が、生きた人間を殺したの?)

(すべては、ねじ曲がった童話の中で起きたことです)

(犯人の名は?)

 ガラスの中で、唇が動いた。が、声は鋭い警笛に掻き消された。電車は国立駅を出て、高架の上を突っ走ってゆく。

 幻をつかむように、夢の残像を記憶に留めようとした。彼女の唇の動きを読みとった気がして、私は呆然とつぶやいた。

「まさか……そんなことが」

 高尾駅で降りると、陽射しのわりに、清涼な空気に驚かされた。ここはまだ山の麓で、それなりに小都会を成しているが、電車に乗る前とは、体感温度が三度は違って感じられた。

 馬車廻しの端に止められた黒いタクシーの外で、巨漢が煙草を吸っていた。こんなところは今のご時世、必ず禁煙であるはずなのに、堀川秋海は気にもとめない。私が近づくと、足で煙草を踏みつぶし、片手を上げた。

「彼女待ちだよ」

「まだ来ていないんですか?」

 時間ぎりぎりに来る流儀の私と異なり、これまでも美架は必ず先に来て待っていた。座るでもなく、携帯電話をいじるでもなく、生真面目に立ったまま、例の蒼い顔をしゃんと前に向けて。

 またライターを擦りながら、堀川が言う。

「飯は食ったかね」

「はあ、そこはかとなく」

「おれもだ。高尾山といえば天狗と蕎麦だからな。じつに旨い鰊蕎麦だった」

 一軒だけ見える蕎麦屋を顧みて、舌なめずりすると、かれは語を継いだ。

「高木のやつめ、そうとうコタエてたみたいだよ。きみの家政婦が、“最後の一つのピースを見つけた”って? その一言を聞いたとたん、飢えたクロマグロみたいに飛びついてきやがった」

「よくおれたちまで、同行が許されましたね」

「彼女の出した条件とあってはね。やつらも、そうとう焦っているのさ」

 堀川は、ぜえぜえと喘ぐような笑いかたをした。かれとて美架の口から犯人の名や、トリックを明かされたわけではない。それでも彼女が真相に辿り着いたことを、疑おうとしないのは、やはり北鎌倉の一件に、この妖怪さえも、瞠目させられたのだろう。

「やあ、京王線で来たのか。名探偵のお出ましだ」

 振り返ると、黒いワンピースに身を包んだ勅使河原美架が、駅舎を出たところだった。階段の上で私たちを認めると、両手を揃えて深々と頭を下げた。

 古風な駅舎を背景にたたずむその姿は、いにしえの探偵小説の時代から、時空を超えてあらわれたかのようだった。

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