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瓶詰めの蝶々 第六十五回

 全員の視線が自身に集中するのを認めたように、彼女はうなずいた。両手をゆっくりと頭の後ろへ回し、うなじの辺りをさぐった。髪を掻き上げる仕草とともに、たちまちそれは捨て去られた。

 不意に解放されたのを驚くのか、「本来の」彼女の髪は、みずからのしっとりとした重みで、冷えた森の空気の中へ落ち、揺れて乱れた。

「無様な女優もいたものです。できればこれ以上は、ご覧にならないで」

 例によって、感情を圧し殺した声と表情の底に、小須田は火のような羞恥を見る思いがした。裸で衆目に晒された女のように。いや、実際に玄関ホールで、みずから服を脱ぎ捨てた時には感じられなかった、圧倒的な屈辱に、今の彼女は身を震わせているかのようだ。

 漆黒の長い髪が、彼女を「家政婦」から一匹の、手負いの野獣へと変えていた。

「理由をいま、追求するつもりはありませんよ。ただ確かめたかっただけです。あなたが長い髪の持ち主だということを。ええ、そうでなければ、いけませんから」

 昨夜高木は、ついに署へ戻らなかった。今朝は目を真っ赤に腫らしており、酒の匂いがした。かれが、何らかの結論を得たことは間違いない。

 但し、“フェル”の頭脳がどんな解答を弾き出したのか、小須田には皆目見当がつかない。それとなく尋ねたところで、

「ウラがとれてからだ」

 むっつりと、はねつけられた。さっきかれは、確かめたいことが二つあると言った。そのうちの一つが、櫻井晃子がショートヘアを偽装していたことなのか。偽装、と言ったところで、行為そのものは、とても犯罪とは呼べない。いったい彼女の長い髪が、殺人事件にどう絡みついてくるのか……

 小須田は唇を噛んだ。混乱が増すに連れて、現実感はどんどん希薄になってゆく。足元が崩れて、それこそとてつもなく深い井戸の底へ、放り込まれた感触がある。

 高木が確かめたかったという、もう一つの事実とは何なのか?

「では皆さん、どうぞ中へ」

 タキシードを纏っていないのが不思議に思われるほど、日頃のかれに似合わない優雅な仕草が、小須田をまた異界へ誘う気がした。小腰を屈め、揃えられた指先は、「鏡の家」を正確に指し示していた。

「お辛いとは思いますが、だいじょうぶですか?」

 この言葉は、北村紅葉にかけられた。蒼ざめた顔で、彼女は小さくうなずき、男子学生二人に支えられるような恰好で、皆の後ろから歩き始めた。

 入り口に立哨する警官が、手袋を嵌めた手でドアを開けた。先頭を行く高木はゆっくりと、振り向きもせずに歩を進めた。

(何度訪れても、厭な所だ)

 おぞましい作品たちから、なるべく絵から目を逸らしながら、小須田は秩序などと呼んですがってきた杖を、見失いかける。昏い迷路画廊を辿るだけで、いつしか狂った秩序の中に、置き去りにされそうだ。

 かれの真後ろで、鴉女の衣擦れが囁き続けている。

 最後から三番め。第十番めの作品の前で、高木は足を止めた。十名が入りきるには、あまりにも狭い。学芸員か何かのように、かれだけが大きな縦長のカンバスに背を向けて立つ。そこには一本の木が描かれている、一見何の変哲もない絵。だが顔を近づければ、異様な執念で描きこまれた無数の妖物たちが、葉叢の中で蠢き始めるはずだ。

 高木はノックするように、左手で黒い壁を叩いた。硬い木の音が、薄闇の中で陰気に反響した。

「この隣に第十二番めの作品、すなわち、巨大な補虫瓶が据えられています。痛ましい殺人事件の現場でもあります。ちょうど、壁を隔てて、同じ間取りの小部屋が二つ並んだ格好となっております。では、失礼して」

 かれは九名の「聴衆」を掻き分ける恰好で、小部屋を出た。左に折れる細長い空間の突き当りに、十一番めの作品がかけられている。リチャード・カッシングの最も有名な絵、『妖精の鉄槌』だ。

「おそらく初めて訪れる誰もが、この絵に惹きつけられずにはいられますまい。ですから、左側の壁にドア一枚ぶんの隙間があり、その奥に第十二番の、そして最後の作品があることに気づくまで、少々時間がかかりましょう。ただし、最奥の小部屋に、何者かが隠れていて、第一発見者が絵に見入ってる隙に脱出する、なんてことは不可能と言わざるを得ない」

 そう言いながら、紅葉へ目を向けると、彼女は目顔でうなずいた。次に高木は左を向いて、最後の小部屋に入って行った。ドアの隙間から、ぼうっと蒼く照らされた瓶を眺め、小須田は眉をひそめた。

 水だけが並々とたたえられた瓶の前で、高木はまた振り返り、今度は右側の壁を叩いた。

 さっき叩かれた壁の、ちょうど裏側にあたる。が、さっきと異なりミュートされたような、くぐもった音が鳴るばかり。

「隠し扉でもあると仰言るのですか?」

 嘲りを含んだ声で櫻井が言う。高木は首を振った。

「もしそんなものがあれば、捜査官が見逃すはずがない。この壁は開かない。むろん、この壁の厚さでは、一匹の黒猫を塗り籠められるかどうかさえ、おぼつかない。だが、私が考えている“ある”ものなら、ここに隠すことが可能です」

「あるものとは……?」

「見せていただきたいのですよ。あなたの手で」

 かれの視線は、まっすぐ井澤絵莉子に向けられていた。

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