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屋根裏の演奏者 第十一回

「ちょうどその女学生の彼氏が尋ねてきたところで、チャイムを鳴らそうとした指が、止まったといいます。友達が来ていて、課題の練習でもしていると考えたのですね。連弾は一分ほど続いたあと……」

 竜也は両手でランダムに鍵盤を押さえ、不協和音を響かせた。

「それっきり、何のもの音も聴こえません。彼女には、もともと夢遊病の気があったらしく、さすがに彼氏も心配になってきました。チャイムを鳴らしても、応答なし。ドアにはしっかり、鍵がかかっています。そこで、彼女から預かっていた合鍵を取り出してドアを開け、キッチンスペースを抜けました。さらに引き戸を開けたところ……」

 彼女が「一人だけ」、ピアノの上に突っ伏すようにして、気を失っていたという。

「ミステリー用語を使えば、密室ですね。ええ、ご丁寧に窓にも、鍵がかけられていたとか。女学生を揺り起こしてみると、寝ぼけ眼です。ピアノを弾いたことなど、記憶にないといいます。これまで、夢中遊行状態で、ピアノを弾いてしまうことは、何度かあったようなんですが。それにしても、腕があと二本足りない」

「怪談ですね」なぜか満足げに、家政婦はうなずいた。

「まあ、夏になるとコンビニで売っている、怪奇実話の文庫本にでも、ありがちな話です。『幽霊と連弾した音大生』、ですか。信憑性は、もちろん保証できませんよ」

「リアルではない。だから、美しいのですね」

 家政婦の声に含まれた、哀しげな響きが、竜也には少し意外に感じられた。まるで「怪談噺」の裏側を、その醜怪な真実を、垣間見たかのような。

 紅茶のおかわりを淹れてくれたあと、彼女は尋ねた。

「緑館の大家さんは、長峯さんといいましたか。学生時代、オーケストラ部に所属なさっていたのですね」

「紅葉がそう言っていました」

「何の楽器を担当なさっていたのでしょう」

「そこまでは聞かなかったな……ああ、なるほど!」

 竜也が目を見張ると、家政婦はうなずいてみせた。

 緑館と母屋は隣接しており、窓が向かい合っている、奇妙な構造だ。もし長峯が悪戯心を起こし、ベランダに出て自慢の腕前を披露したとすれば、たちどころに、このたびの「怪異」が現出する。母屋のベランダは、時計塔とほぼ同じ高さだ。

「屋上ライブ! ビートルズですよ。いつも黒い服を着ている紅葉を、大家さんは、『ベイベーズ・イン・ブラック』を歌って、ひやかしました。そこまで有名な曲ではありませんから、口をついて出てくるということは、きっとファンなのでしょう」

 一九六九年一月三十日。一切のコンサート活動を停止していたビートルズは、突如、アップル社ビルの屋上で、ゲリラ的にライブを行った。見物人が群れをなし、警察が取り囲んだ。後期の名曲『ゲット・バック』や『ドント・レット・ミー・ダウン』などが演奏されたが、四十七分後に、警察に中止させられた。

 意識していたかどうかはともかく、長峯の心のどこかに、この伝説的な「ルーフトップ・コンサート」があったのではないか。酒に酔ったか、月に浮かれたのか、ともかく一曲、演奏してみたくなったとき、屋上ライブの模倣は、立派な「動機」となり得るだろう。興奮ぎみの竜也を、けれど、家政婦は宥めるように、ちょっと肩をすくめた。

「もちろん、長峯さんの腕前が、『プロ級』であった上での話です」

「調べておきますよ」

「音源がどこにあるのか、それを突き止めるのが第一の問題ですね」

「えっ?」

 驚いて見上げた家政婦は、はたきを手挟んで、軽く腕を組み、人さし指を下唇にあてていた。

「勅使河原さんは、またあの演奏が繰り返されると、考えているのですか」

「はい。おそらくは」

 そうしてその夜の日付が変わる頃、かれは勅使河原美架の予言が的中したことを知る。

 ぱたぱたと、せわしない隣のもの音が止むと、急に空気が張りつめたような気がした。竜也はテレビをつけっ放しにしておくのが嫌いだし、今夜は来客もないので、かすかな、弦の擦れる音が、はっきりと聴こえた。何者かが、ヴァイオリンの弦を、チューニングしているのだ。

 腕が粟だつのが意識された。時計に目をやると、十一時五十九分。赤い秒針が、神経質な調子で回転し、やがて十二の文字と交わると同時に、演奏が開始された。

 一週間前の夜と同じ、バッハのシャコンヌだった。

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