瓶詰めの蝶々 第六十二回
◇
さっきから、ずっと会話は途絶えていた。
まるで難民キャンプのようだ。
ぐったりとソファにもたれたまま、藤本竜也はそう考えた。
冷房はとうに切ってあるのに、かれらが寝泊まりする(あるいは幽閉されている)二階のホールには、周囲から冷気が忍び寄るようだ。灯りは全てともしているにもかかわらず、闇の粒子に蝕まれてゆくように、暗く感じる。
四日前の、あの浮かれた気分は、どこへ吹き飛ばされたのだろう。あの日の夜と、今夜との間には、あまりにも深い溝が横たわっていた。
決して光の射すことのない溝……奥には、井戸の底のように暗く湿った闇が、べったりと貼りついている。そこに何かが棲息し、嘲るように蠢き、時折こちらを、爬虫類めいた陰湿な眼つきで凝視する……
北村紅葉は、窓の下でうずくまっていた。毛布を床に敷き、抱え込んだ膝に頬を埋めて。
カッシングの絵を見て、はしゃいでいた面影は、もはや残っていない。一階のリビングの絵には、さすがに覆いがかけられているが、前を通るだけで、びくりと肩を震わせるようになった。
「なあ」
猫に似た呻き声を聴いて、竜也は目を見張った。面前でうなだれている、岡田悟が発した声だと気がつくまで、だいぶ時間がかかった。
「おれたち、明日も帰してもらえないのかな」
あまり口にしてほしくない言葉だ。とくに、神経質になっている紅葉には、聴かせたくなかった。思慮を欠く友人への苛立ちが、竜也の口調に棘を含ませた。
「帰りたいと言えば、帰れるんじゃないか。あくまで任意なんだから」
「でも、やっぱり帰れないんだろう」
堂々巡り。これ以上、何を答えても埒が明かない。権力とは、鋼でできた蜘蛛の糸だ。ふだんは意識されないが、ひとたび抵触したとたん、有無を言わさぬ強靭な力で、ぎりぎりと締め上げてくる。
そのときになって初めて、自身が決して「自由」なんかじゃなかったことを思い知る。
弁護士を呼ぶことも考えた。竜也の家の財力をもってすれば、わけのないことだ。けれど、そうしたところで「被疑者」の候補であるという現状は、少しも変わらない。だいいち、事なかれ主義の父親に負担をかけるのは、たいそう気が引けた。悟は続けた。
「この家の近くを、殺人鬼がまだうろついてるってことだよな」
殺人鬼……
その大仰な響きを笑ってやるつもりが、凍りつくような戦慄に阻止された。
「だとしたら、そいつがまた人を殺さないとも、限らないじゃないか。殺した上に瓶詰めにして、晒し者にするようなやつだぞ。狂ってるよ。完全に、頭がおかしい。だとしたら、なあ、次に殺られるのが、おれたちのうちの誰かでないと……」
「やめろ」
悟を制し、覚えず紅葉のほうへ目を向けた。が、彼女は相変わらず、膝に顔をうずめたまま。
「何人もの警官が、徹夜で耳をそばだてているよ。狂人だか殺人鬼だか知らないが、おいそれとみょうな真似はできないさ」
「じゃあ、密室はどうなってるんだ。現実にはあり得ないことが、起きてしまったんじゃないのか。そいつは本当に」
「ほんとうに?」
言葉を詰まらせた悟に、覚えず聞き返した。訊き返してから、よせばよかったと後悔した。
「ほんとうに、人間なのか?」
どこから入り込んだのか、一匹の蛾が、電灯の周囲を飛び廻っていた。その影がみょうに大きく、そして暗く、部屋じゅうを舐めまわすのだ。
竜也が目を逸らしたのは、蛾の翅の色が、真っ蒼だったから。
「ねえ」
紅葉が顔をあげていた。見開かれた目。うつろな視線は、彷徨する蛾の描く軌跡を追って、さまよっているのだろうか。
「ほんとうに私は、あの人を殺していないのかしら」
竜也ばかりでなく、悟の表情にも、危機感が走った。彼女の精神は想像以上に蝕まれているのではないか。そんな二人の懸念に気づいたのか、紅葉は視線を落とし、力なく微笑んだ。
「ううん、わかっているの。私が、おかしなことを口走ってるってことは。でも、あの肥った刑事の尋問を、繰り返し受けるうちに、ちょっとずつ、あやふやになってくるのよね。事実という固い、平らな地面の上に立っているつもりが、いつの間にかぐらぐらする、断崖絶壁の上にいるような気がしてくる。過去が、ほんとうに自分が覚えているとおりの過去なのか、自信が持てなくなってくる」
「刑事に、酷いことを言われたの?」
「むしろ丁寧すぎるくらいよ。丁寧すぎるから、溶けちゃうのよね。絶対にそうでないと確信しているつもりの記憶が、お鍋に放り込んだチョコレートみたくぐにゃぐにゃに溶けて、私があの人を殺した可能性だって、決してないとは言いきれないんじゃないかって」
「きみは疲れてるんだよ。自白至上主義、日本の警察の一番よくないところだ。自白を引き出すために、あの手この手で神経を疲弊させるだろう。鋼鉄の意志の持ち主でも、尋問を繰り返されるうちに、たいていはきみみたいな気分になるというよ」
しきりに爪を噛む竜也を横目に、紅葉は言う。
「でもね、残された可能性は、やっぱり私一人を指さしているのよね。鍵を開けたのは、私。死体を見つけたのも、私。算数以前の問題じゃないかしら。当然、殺したのは……」
「違うよ!」
覚えず声を荒げてしまい、慌てて言い足した。
「そんなこと、あるわけないじゃないか。そんなことが」
もうこの辺りが、限界かもしれない。
冷たい沈黙に耐えながら、竜也はスマートフォンを引っ張り出し、「かれの家政婦」のメールアドレスを呼び出した。




