瓶詰めの蝶々 第六十一回
◇
ヒグラシの声は、闇を招き寄せる。
森の中の家は、日没を待って目覚め、夜気の中で呼吸を始める。
玄関ホールには、すでに灯りがともされているが、壁から染み出してくるような、昏さは払拭できない。得体の知れない生き物に呑み込まれる……そんな予感に震えるのか、直立不動の制服警官の肩も、心なしかすぼまって見える。
自身が吐き出した紫煙を、ぼんやりと眺めていた“フェル博士”は、不意に小須田のほうへ目を向けた。
「すまないが、先に署に戻っていてくれないか。報告は適当に頼むよ」
「高木さんは?」
「とくに用もないだがね。考え事をするには、悪くない場所だ」
ココロ、ココニアラズ。
であるが、うつろな声に反して投げかけられた目つきの、尋常ならぬ鋭さに、小須田は胸を突かれた気がした。
「考え事のお邪魔でなければ、ぼくもしばらく、ここにいたいのですが」
「おれにつきあったって、このがらんどうの頭からは、錆びたネジ一本、飛び出しはしないよ」
苦笑しながら、強いて署へ帰らせようともしない。携帯用の灰皿で煙草を始末し、よれよれのやつをもう一本くわえた。短い電子音が鳴ったのは、そのとき。
ぴくりと肩を震わせ、いまいましげに舌打ちした。背広のポケットを探り、高木は官給品のスマートフォンを取り出した。くそ忌々しい玩具め。いつか燃えないゴミの日のパッカー車に放りこんでやる。常にそうぼやいているが、何事も情報がモノを言う仕事柄、しぶしぶ所持しているようだ。
不器用に指をさまよわせたあと、かれは眉根を寄せたまま、しばらくモニターを凝視していた。
「じつにいかがわしい、電子メールが届いたよ」
ぶっきらぼうに差し出された「玩具」を受け取り、覗きこんだ。
「堀川との密約を覚えているだろう。やつめ、さっそく変てこなネタを放り込んできやがった」
堀川秋海。居酒屋で出くわした巨漢の、狡猾そうな目つきが浮かんだ。が、それも束の間、小須田は貪るように、メールの字面を追っていた。高木の声が、うつろに響いた。
「もちろんきみは、北鎌倉の事件を知っているだろう。あれも探偵小説を切り抜いたような密室殺人ということで、ずいぶん世間を騒がせたものだった。事件を解明した手柄は、神奈川県警の稲月くんに帰したわけだが。じつは警察が匙を投げた謎を、一民間人の女性が解いたのだ」
「え?」
「そんな噂を聞いたことはないか?」
「この、チョクシガワラ?」
「テシガワラだ」
堀川の報告によれば、一介の家政婦であるという、勅使河原美架はカッシングの三人の愛人たちと、「井戸の中の三姉妹」との名前の類似を指摘していた。
むろん、井澤、由井崎、桜井の三名に血縁関係はまったくなかった。ゆえに彼女たちを童話の一挿話に見立てることは、こじつけ以外の何ものでもなく、いたずらに事実を神秘化し、掻き廻すだけかと思われた。
それでもかれは、繰り返し襲ってくる不可解な戦慄を、振り払うことができなかった。調子っ外れな歌のように、高木は口ずさむ。
「むかし、むかし、小さな三姉妹がおったのさ。眠りネズミはそう語ったもんだった。それぞれの名前が、Elsie、Lacie、そしてTillieで。彼女らが棲んでおったのは、井戸の底だった」
「ここにも書かれていますが、三姉妹の名は、次女が童話のモデルとなった、リデル家の三姉妹の名前にちなんでいるようですね。とくにLacieはAliceのアナグラムです」
アリス……
別荘のリビングにかけられた由井崎怜子の肖像画は、アリスの服を着せられていなかったか!
「ならばこの事件は、密室の裏側に、見立て殺人の要素が隠されていたのでしょうか」
高木は答えない。スマートフォンを取り返すことも忘れて、眉根を寄せ、よれよれの煙草を噛みしめている。
「いったい、右肩に片翅の蝶の刺青を入れられ、瓶詰めにされて殺された女が、なぜアリスなのでしょうか」
自身の声が、この世ならぬ場所で響いている気がする。現実感が急速に、希薄になってゆく。
「見ていただきたいものが、ございます」
足音は、まったく聴こえなかった。
小須田は危うく悲鳴を上げかけた。警備の制服警官すら、化け物に出くわしたように、目を見開いていた。
レースのカーテンの向こうで、外はすっかり闇に包まれていた。その闇から抜け出してきたように、櫻井晃子が、両手をエプロンの前に揃えて、たたずんでいた。
高木ばかりが、さほど驚いていないように見えた。
まるで来ることを予期していたように、そして対決するかのように、櫻井の前に歩を進めた。ほんの一瞬だが、彼女の唇に薄い、挑発的な笑みが浮かんだ。
「そろそろわたくしが、三匹めの蝶であったことに、お気づきになった頃かと存じまして」
「同じ穴の何とかというわけですね。いえ、同じ井戸、と言い換えるべきでしょうか」
「お察しが宜しくていらっしゃいます。お人払いの必要はございません」
彼女は腰の後ろに両手を廻し、エプロンの結び目を解いた。
幽かな衣擦れ。力尽きた白い蝶のように、床に滑り落ちてゆく布地が、みょうに鮮やかに、若い刑事の目を射た。




