瓶詰めの蝶々 第五十八回
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午前十一時をだいぶ廻った頃、堀川からの電話で叩き起こされた。
「酒井くん、肉でも喰いに行かないか?」
悪夢なら覚めてくれと願ったが、カーテン越しの陽光が、外の喧騒とともに押し寄せ、皮膚をちりちりと焼くようだ。棺桶から引きずり出された吸血鬼よろしく、私は呻いた。
「こんな朝っぱらから?」
「自堕落なきみと違ってね、世の勤労者たちは、今頃昼飯に何を喰おうかと、そのことで頭が一杯なんだよ。有楽町まで出て来たまえ。なに、一時ごろで構わない。そのほうが、空いているから。ガード下の大衆食堂は知ってるだろう」
私の返事を待たず、一方的に通話を切られた。そのあともしばらくは、堀川の大声が、頭の中でこだまを返していた。
ほとんど転げ落ちるように、ベッドから這い出し、私はイマイマしげに頭を掻きむしった。だいいち「世の勤労者」が、聞いて呆れる。稀代の山師、堀川こそ、そこから最も程遠い人種ではあるまいか。
(それに堀川とて同じ穴の狢ではないか)
そのことに思い当たり、奇異な思いを抱いた。いわばムジナの親方といえる堀川秋海は、昼日中から、めったに私を呼び出したりはしなかった。要するに、「文壇の妖怪」の異名どおり、かれ自身、極端な夜行性なのである。
ここ十年ほどで、文壇の様相もずいぶん様変わりした。それは盤石かと思われた、いにしえの中国の巨大な帝国がやがて衰え、蛮族の侵入を許し、四分五裂するさまに似ていたかもしれない。佐藤春夫あたりが、ボスとしてでんと君臨していた黄金時代は、とうに過ぎ去り、堀川のような、タレント事務所まで設立するような山師が、これまた胡散臭い子分をしたがえ、ハバを利かせている。
むろん、このぼくも、胡散臭い子分の一人に過ぎないのだが。
そんな文壇の堕落には、仮想空間による侵略もさることながら、高学歴のエリート集団と化し、もはや「数字」しか見なくなった「出版社」側にも、おおいに責任があるのではないか。
ともあれ、健啖家の堀川が、わざわざ「肉を喰う」ために、ガード下の大衆食堂を指定してきたのも、異例と言えた。たしかにかれは新宿の小便、いや、思い出横丁やゴールデン街を好みはしたが、いざ食事となれば、フルコースが出て来るような所でなければ気がすまなかったから。
駒込駅から東京方面行きの電車に乗ったのが、十二時過ぎ。
月曜の昼間である。こんな時間に、池袋・新宿方面へ行くことはたまにあったが、逆方向はちょっとした未知の領域といえた。驚くほどがらんとしており、隅の座席に腰をおろした。うとうとしたり、目を覚ましたりした。
鶯谷で気がつくと、いつのまにか、座席の大半は埋まっていた。やけに血色の好い中年男と、三十前とおぼしい女が乗ってきて、向かい側に一つだけ空いていた席に、どちらが座るの座らないのと譲り始めた。
(女性編集者と、どこぞのおエラい先生か)
眉をひそめて、咄嗟にそう考えたのは、ひがみ根性からだろう。
こんな真夏に男は三つ揃いのスーツを着て、恰幅が好く、耳の横にもじゃもじゃと垂れた長髪。ぱんぱんに張った顔に、満面の笑みを浮かべている。大学教授にありがちな風貌だ。
女のほうは大きめの黒いバッグを肩から提げ、茶色のミニスカートに、ベージュのブラウス。黒いストッキングを履いているのが、なぜか目についた。
けっきょく押し切られた格好で、女が座った。男は吊革につかまり、しきりに話しかけている。会話の内容はさすがにわからないが、ずいぶん声高だ。女の隣にかけていた、初老のサラリーマンが、意味ありげにニヤニヤしている。
上野で男が下りるとき、女も席を立ったが、ここでは下りないらしい。男はホームから手を振っている。対して、女は丁寧なおじぎを繰り返している。おじぎをする時に、スカートの裾が吊り上がり、ストッキングにガーターベルトがつけられているのを見て、私はようやく二人の関係を理解した。
二人の関係が、私が最初に想像したものでなかったことで、なぜかむしろ、より清いものに感じられた。意味ありげなサラリーマンの視線にさらされながら、ガーターベルトが見えることも厭わずに、一心に窓の外に向かっておじぎを続ける女の姿が。
世の勤労者、という堀川の一言が、急に重みをもって、胸にのしかかってくる気がした。
一時十分前に、ガード下に着いた。
この辺りは、わざと「レトロ」路線を継承して成功した一角というべきか。大正浪漫香る希少なポスターなどが貼ってあるが、むろん、戦争で一度は灰塵に帰しているはずである。
目前に銀座を控えながら、この辺りは線路に沿って、ごちゃごちゃと木造建築が立ち並ぶ。ぼや騒ぎで、山手線が何時間も止まったこともある。ガード下は昼なお暗く、超時代的な大衆食堂の灯りが、ノスタルジックにともっている。東京とは、奇怪な街である。
「き、きみ……なんでここに?」
驚愕した。
ちょっと形容し難い形に結い上げられた髪。リボンなのかカンザシというのか、それは頭のてっぺんで、いかにも無造作に束ねられている。服は、何も身に着けていないようだが、闇の中から浮かび上がるバストショットは、かろうじて乳房の膨らみが感じられる程度。
滋養、美味、葡萄酒。赤玉ポートワイン。
そう書かれた、レトロなポスターの前に、いかにも手持無沙汰な様子で、勅使河原美架がたたずんでいた。




