瓶詰めの蝶々 第五十七回
頭痛を覚えたように、高木はこめかみを押さえ、小須田は瞠目したまま、無闇に鼻の下を擦った。
あれほど緻密な刺青を、あれほど広範囲に彫るとなると、かなりの大仕事だ。ゆうべ高木も言っていたが、そこいらのチンピラは泣いて逃げ出す。それを肌の持ち主の合意を得ずに彫ることなど、可能なのだろうか。
さすがの“フェル博士”も、声を震わせた。
「睡眠薬が用いられたというのですか」
「できれば、黙秘させていただきたいのですが」
「え、ええ、もちろんですとも。日本国憲法第三十八条に誓って」
わざとしゃちこばって敬礼しながら、みずからの肩をぎゅっと抱いた絵莉子の仕草を、高木は痛ましげに見下ろしていた。
彼女が語ろうとしなかったことで、かえって小須田には、闇に覆われた沈黙の裏側が、透けて見える気がした。
……哀願と、悲鳴と。
これまで調べたリチャード・カッシングの行状を鑑みても、睡眠導入剤などが用いられたとは思えない。あれは「作品」だと、絵莉子は言った。気の触れた画家が、おのれの「制作」の愉びを半減させるような薬品など、用いるわけがない。
瓶詰めにされた由井崎玲子の裸身が、まざまざと脳裏に蘇るのを、小須田はどうすることもできなかった。あれもまた「作品」だったというのか。
画家の亡霊の?
「つかぬことをお伺いしますが……」
落ち着き払った高木の声を聴かなければ、パニックに陥っていたかもしれない。見れば、かれはいつの間にかテーブル越しに、絵莉子の前に腰をおろしていた。
正面から見据えられて、彼女はさすがに不安げな面持ち。悪意に満ちた間をたっぷりととって、高木は言った。
「音大生の男の子……別荘の持ち主でハンサムなほうですな。かれが、見たと言うのですよ。事件が起きた夜、時刻は定かでありませんが、あなたがたとの会食の後です。かれらが寝泊まりしている別荘の一階の浴室で、右肩に蝶の刺青をした女性の姿を」
相手の目を見て会話することを、絵莉子が厭うことに、小須田は気づいていた。けれども今、彼女は背筋を伸ばしたまま、女主人然とした態度で、蛇の眼差しを見返していた。
「藤本さまが、使用中の浴室を覗いた、ということでしょうか?」
「なにぶん、酔って意識が朦朧としていたようですから。アクシデントというべきでしょうな。それでもたしかに、右の肩に蝶の刺青があったと、かれは主張するのです。ちょうど、由井崎さんの肩に彫られていたような」
とうとう火をつけぬまま、指の間でくしゃくしゃになった煙草を、かれは口の端にくわえた。意図的に、さっきより短くした沈黙の後で、素早く語を継いだ。
「かれは、女性の髪が長かったことを証言しております」
きゅっと眉間に皺を寄せ、彼女は小テーブルの上に目を伏せた。
「わかりました。あなたはこう仰言りたいのですね。この家に髪の長い女は二人しかいなかった。しかも藤本さんが浴室を覗いた時刻に、そのうち一人はすでに殺されていた」
「むろん、外部から侵入者がなかったとは限りません。真夜中に、小仏峠の奥深くまで、わざわざ風呂に入りに来る若い女性がいれば、の話ですが」
「これ以上議論するには及びませんわ。高木さん、わたくしがその女性ではないことを、証明させていただきます」
さらさらという、衣擦れとともに彼女は席を立った。テーブルに肘をついて指を組んだまま、高木はなぜか蒼白な面持ちで、絵莉子を見上げた。それから先のことを、小須田は夢の中の出来事のように、おぼつかなく記憶している。
「お二人だけ、どうぞこちらへ」
先に立って玄関ホールを横ぎって行く彼女には、やはり女主人の風格がみなぎっていた。動揺する制服警官を、高木が片手をあげて制した。
案内されたのは、玄関脇の小部屋だった。事件の夜、北村紅葉が少時、絵莉子を待っていたのと同じ部屋。板が剥き出しの床と壁。窓はなく、赤いシェードのランプがともされたこの部屋は、まるで永久に夜の中に置き去りにされているようだ。
三人とも、儀式を待つかのように無言のまま。高木がドアを閉める音が響くと同時に、絵莉子はくるりと、体ごと振り返った。
それから遊牧民の踊り手のように、優雅に、おもうさま両手を上げて、うなじの後ろにあるボタンをひとつ外した。
小須田は、呼吸するのが精一杯な自身を意識した。花柄のワンピースの背中のボタンが、すべて外されたところだった。胸を覆うように、両肩にかけた手を、彼女はゆっくりと下へ滑らせた。
大理石めいた肩のラインから、複雑な刺繍のある、白いビスチェに覆われた乳房の膨らみまで、すっかりあらわになった。花弁のように、解かれたワンピースがそれを縁どっていた。
瀕死の野獣のような、高木の呻き声を、小須田は聴いた。
井澤絵莉子の一方の肩には、由井崎玲子とまったく同じ図柄の蝶の刺青が、びっしりとほどこされていた。
右の肩ではなく、
左肩に!




