瓶詰めの蝶々 第五十五回
「見たのです」
それだけ言って、口をつぐんだ。何度も唇を舐めては、噛んだ。端正な顔立ちと不釣り合いな、我を忘れた動作が、さらに高木の興味を引いたようだ。
「見た? 率直に言えば、犯人か、あるいはそれらしき人物を見た、という意味でしょうか」
「いえ、どちらかといえば、ころ……被害者を見たということに、なると思います」
「どちらかといえば?」
鸚鵡返しの、怪訝な口調とは裏腹に、警部補の顔は酔い痴れたように紅潮していた。狡猾な蛇のように、舌なめずりしないのが不思議なほど。
「話していただけますか。多少、辻褄が合わなくてもかまいません。きみが見たものを、見たままに」
「ぼくは、風呂に入りたかったのです」
「ふむ」高木は顎を撫でる。
「真夜中でしたが、何時ごろなのか、定かではありません。とにかく気分が悪かったし、喉も渇いていました。頭からシャワーを浴びたら、少しは生きた心地がするだろう。そう思うと、いてもたってもいられなくなって、ぼくは二階の小ホールを抜け出して、ふらつく足取りで階段を降りました」
「ホールで寝ていたことに、きみは驚きませんでしたか」
「驚いた、のでしょうね。でも、頭がぼんやりしていて、まだどこか夢の中にいるようでした」
「部屋には、岡田くんがいましたか」
「いたと思います」
「北村さんは?」
苦しそうな顔で、かれは首を振った。高木は蛇の眼光を宿したまま、柔和な声で先を促した。
「続けてください」
「一階は、しんと静まり返っていました。キッチンにもリビングにも灯りがついておらず、ただ、突き当りのバスルームから、かすかな水の音が聴こえてくるのです。ドアが少し開いており、灯りが洩れていたようです。ぼくは強烈な渇きにみまわれて、ほとんど無意識に、ドアから中を覗きました」
「覗いた?」
「いやらしい考えが、あったわけではありません。とてもそんな余裕は……」
「信じますとも。衣食満ち足りてこその性欲ですからね。何が見えましたか」
「刺青です」
煙草を取り出そうとした高木は、たちまち中身を床にぶちまけた。いまいましげに一本を拾い上げて、フィルターごと苦虫を噛みつぶした。
「片翅の蝶の?」
「そうです。長い髪が、刺青のまわりにべったりと貼りついていました」
「どちら側の肩に?」
「右です。左には、タトゥーはありませんでした。なぜかそれだけは、はっきりと覚えています」
「あなたはその人物……もちろん女ですよね。彼女の顔を見ましたか」
「はい。目が合ったくらいですから」
「由井崎怜子だったのですか?」
小須田は無意識に、生唾を呑んだ。頭痛を覚えたように、竜也は髪を鷲づかみにしてうつむいた。
「わかりません。湯気でかすんでいましたし、脱衣所の向こうに、磨りガラスが少し開いているだけでしたから。ただゾッとするような、切れ長の、鋭い目つきを覚えているだけです」
二人がホールを出てゆくと、高木はどっと疲れたように、ソファに身を沈めた。木枠の悲鳴が、かれの溜め息と混ざり合い、不気味な不協和音を奏でた。小須田が、拾い上げたよれよれの煙草を差し出した。
「やあ、すまん。まったく、聞かなけりゃよかったよ」
「藤本竜也は、何時ごろだか覚えていないと言ってましたが……」
「いずれにせよ、由井崎怜子はとっくに死んでなくちゃならん。かれが、亡霊を見たのでなければの話だ」
亡霊。またしても、亡霊だ。この家には、亡霊が多すぎる。
ともすれば引きずり込まれそうになる、幻怪なイメージを、小須田は懸命に振り払おおうとした。
「藤本が幻覚を見たとは、考えられませんか」
皺くちゃの箱に煙草を一本づつ戻しながら、高木が言う。
「そのケがあると、本人も言っていたな。おまけにしこたま酔っ払った後だ。充分考えられるが、みょうにリアルなんだよなあ」
「と言いますと?」
「今頃になって、こんな証言が飛び出してきたところが、さ。かれ自身、一度は幻として揉み潰した記憶なんだろう。が、実際見たものだから、いつまでも頭を離れなかったんじゃないのかい」
「じゃあ、被害者は……」
「たっぷりと水の入った瓶に詰められた女が、そのうえ風呂に入りたがるかね。いくら真夏でも瓶の中は冷えるワ、とか言って、死体が歩いて来たのかね。そうじゃないだろう。そうでなければ、そいつは別人に違いない」
使い捨てライターの炎を睨んだまま、高木が語を継いだ。
「片翅の蝶は、一匹だけとは限らない」
あっ、と小須田は声を洩らした。髪の長い女だと、竜也は言っていた。戦慄の中で、制服警官に高木が耳打ちする声を、いやにはっきりと聴いた。
「きみ、井澤絵莉子を呼んできてくれたまえ」




