屋根裏の演奏者 第十回
少なくとも、この家政婦は、不思議な出来事が嫌いではないらしい。その証拠に、
「ヴァイオリンの音は、本当にその……時計塔から聴こえてきたのでしょうか?」
珍しくみずから尋ねてきた。紅茶を片手に、竜也はピアノ椅子に座ったまま、遠くを眺める目つき。
「ちょっと、断定できないな。隣の部屋ならともかく、もの音の出所なんて、案外わからないものです。とくにこういった古い木造だと、複雑に反響しますから」
彼女は、掃除する手をしばし留めて、竜也をかえりみた。なぜか、感心しているふうな表情。意外に冷静なのね、とでも考えたのか。家政婦は言う。
「藤本さんと紅葉さんの部屋を除けば、残り四部屋。四名とも、ヴァイオリンは弾けないのでしたね」
「あそこまで上手くは」
「部屋の主ではなく、別人が弾いたのだとしたら?」
「来客ってこと? どうでしょう。中に一名、決して部屋に他人を入れない男がいますし」
一〇三号室の住人、林晴明のかたくなな表情を思い出し、覚えず眉をひそめた。
「それにあの感じは、実際に聴いてみないとわからないのですが、なにやら異様な……」
「鬼気せまる」
「そう。しかも何の前ふりもなく、いきなり始まって、ぱたりと止み、それっきりでしたから。しかも、プロ級の腕前です」
「遊びに来ていただれかが、手慰みに弾いたとは……」
「とても思えない」
「録音されたものでなかったことは、たしかですか」
「音大生の威信に賭けて」
会話が途切れ、家政婦は黙々と掃除を続けた。
かすかに、バッハの旋律が聴こえてくることに気づき、竜也はぎょっと顔を上げた。けれど、耳を澄ませると、それは家政婦の、あやしげな鼻歌なのだった。
『無伴奏ヴァイオリン・パルティータ』第二番ニ短調、第五楽章のシャコンヌ……
竜也は当初、バッハの曲だとしかわからなかった。もちろん、無伴奏ヴァイオリンのための曲が、いくつかあることは知っていたし、『無伴奏チェロ組曲』が、ヴァイオリンで演奏されることも珍しくない。あのとき、即座に二番のシャコンヌだと指摘したのは、北村紅葉である。
「勅使河原さん、知っているのですか」と、いささか失礼な質問をしてしまう。
「たまたま存じておりました。たしかに、聴いているうちに、時空のはざまへ連れ去られてしまいそうな、幻想的な曲ですね」
バッハの無伴奏ヴァイオリン曲は、三番まであるソナタと、これも三番までのパルティータが現存する。この時代のソナタとパルティータの違いは、竜也にもよくわからないのだが、形式的なソナタより、パルティーがのほうがより古い。もともとの舞曲としての自由奔放さを、随所に残している。
当時のダンスミュージックということになるのだが、それゆえにか、現代人の耳には、切々ともの哀しく響く。
第二番のシャコンヌは、ソナタとパルティータを合わせた中でも、最も長大で、昨夜の演奏がそうであったように、十分を軽く超える。バッハは愛妻を亡くした哀しみを込めて、これを作曲したとも伝えられる。
「幽霊のしわざだと、お考えですか?」
不意に、家政婦がそう尋ねた。怪談として帰着させたほうが、好みに適うのだろうか。竜也は苦笑した。
「まあ、見てのとおり、幽霊の一人や二人、うろついていても、おかしくない物件ですからね。とくに、学生が代々住んできた下宿に、怪談噺はつきもののようです。あのことがあってから、ぼくも気になって。先輩たちから、いろいろと話を仕入れてきました」
「どのような?」身を乗り出した。やはり、好きなのか。
「ありふれたものが、ほとんどですよ。留守にしていたのに、人影が窓に映ったとか。鍵をかけた筈のドアが、ひとりでに開いたとか。変なもの音がするとか。視線を感じるとか。でもひとつ、奇妙な話がありました。ヴァイオリンではありませんが、今回のケースと似ています」
いつの間にか、家政婦が間近に立ち、真剣な表情で聞いていた。吹き出したいのをこらえて、竜也は続けた。
「連弾、というピアノの奏法があります。かつて貴族のサロンなんかで、遊戯的に流行したものらしいのですが。一台のピアノの前に二人が座って、一つの曲を弾くのです。いつの話か、定かではありませんが、真夜中に、ある女子学生の部屋から、連弾する音が聴こえてきました」
ぽーん、と竜也は鍵盤をひとつ鳴らした。




