屋根裏の演奏者 第一回
「ちょっとした、怪談があるのです」
ピーマンのドルマを作りながら、勅使河原美架は思い出したように、そうつぶやいた。
ドルマとは、詰め物という意味らしいので、日本の家庭でも馴染み深い、ピーマンの肉詰めの一種には違いない。けれども、この風変わりな家政婦は、伝統的なトルコ料理だと主張して、譲らないのである。
もっとも、彼女が「風変わり」であるがゆえに、私は家政婦を雇うなどという、分不相応な出費に甘んじているのだが。フリーライターというカタカナこそ仰々しいが、要するに三文作家。とても毎日雇う財力はないので、週に一度、木曜日の午後に来てもらっている。
駒込にある、かろうじてDの字がつく、二部屋のマンション。といっても賃貸であるが。室内を清掃し、夕食を作って帰るのが、彼女の仕事だ。
おそらく通常、家政婦と独身者の雇い主とは、顔を合わせないものだろう。彼が勤めに出ている間に、彼女は仕事を済ませてしまう。けれども私は自由業なので、やれトルコだインドだと、料理に口をはさんでいる。
掃除の邪魔にこそなれ、お世辞にも喜ばしい客とは言えまい。
スパイスの効いたトマトソースが、肉と絡みあう、得もいわれぬ香りが漂ってくる。私は岩波文庫の『審判』を放り出すと、鼻をひくつかせながら、キッチンスペースへ向かう。
料理の香りに、釣られたのではない。「怪談」の一言に、風変わりな事件のにおいを嗅ぎとったのだ。
勅使河原美架には、二つの才能があった。
ひとつは、奇怪な事件に遭遇する才能。
そしてもうひとつは、事件の謎を解く才能である。
先年、私は北鎌倉で取材中、奇怪極まりない事件に巻き込まれ、そこで彼女と知り合った。
密室殺人だった。
誰にも解けないと思われた、複雑に絡みあった謎を、見事に彼女が解き明かした。一部始終を、私は目の当たりにした……以来、こうして彼女を定期的に部屋へ招いては、珍しい話を引き出そうと腐心している。
作家としての投資だと考えているし、実際、彼女の二つの才能のおかげで、投資に見合うだけの、いやそれ以上の実入りをもたらしている。
「血なまぐさい話かい?」幽霊の手つきで尋ねた。
「残念ながら」
贋アンティークのダイニングテーブルの前に座ると、エプロンの結び目をふんわりと揺らして、美架が振り返った。ボブというより、おかっぱと呼びたくなる無造作なショートヘア。瞳はいわゆる三白眼で、常に顔が不健康そうに蒼ざめている。
と、欠点ばかり並べたてるようだが、それらの個性が絶妙なバランスで調和しているので、美人とは断言できないまでも、充分「いい女」で通用する。もしそうでなければ、いくら彼女がネタの宝庫とはいえ、定期的に招いたりしなかったかもしれない。
年齢がどれくらいなのか、尋ねたことはない。古風な話しかたをするが、二十代であろう。意外に上背があり、着痩せするタイプとみた。引き締まった足首が美しい。めったに笑顔を見せず、押し売りを一撃で撃退する、白眼視が特技だとか。さいわい、今のところ私は、その特技を面と向かって浴びせられたことはなかった。
目の前には、すでに紅茶が用意されていた。
「お邪魔だったかな」
「今さらそんなこと。でも、あとは煮込むだけですから」
「じゃあ、きみもお茶につきあわないか」
美架は、何事か考える仕草のあと、コンロのつまみを微調整した。それから素早く、自身のカップを用意して、前の椅子にかけた。動きに無駄がなく、ダンスに通じるような、彼女の仕事ぶりは見ていて飽きない。
ソーサーごとカップを持ち上げ、ひと口飲むと、彼女のほうから切り出した。
「シャコンヌをご存知ですか? バッハの曲です。『無伴奏ヴァイオリン・パルティータ』第二番・ニ短調の最終楽章にあたります」
私は軽い眩暈をおぼえ、脳の回転が一瞬、停止したように感じた。クラシックは嫌いではないが、村上春樹のように、滔々とうんちくを述べるには程遠い。
「無伴奏ということは、要するに、ヴァイオリン一本で演奏する曲だね」
「ええ。そしてとても長い曲です」
「それが?」
「聴こえるらしいのです。水曜日の午前零時になると。それが聴こえるはずのない部屋から」