月明かりのない夜に
酔っ払いの喧騒が耳につく。
北海道一の繁華街すすきのを、わたしは吐きそうなのをこらえながらよたよたと足早に歩いていた。
「これから飲みに行きませんかー?」
イケメン以上ホスト未満と名付けよう、幾つくらいだろうか―――わたしの目には20代後半に見える―――売り子を無視して、地下へと急ぐ。
今夜は月も出ていない。
売り子と待ち合わせの人で混雑する地下への入口に通じる暗がりな階段を、少し大きなパンプスが足から浮いてヒールをカツカツ言わせながら下っていく。
人を避けながらトイレへ向かい、ようやく胃の中の不快なものを吐き出す。
吐ききるとゲホゲホ、と咳をしてから、トイレットペーパーで口を拭き、水を流してしまうと、気分は少し楽になった。
今日は親友の真奈美に呼ばれ、仕方なく数合わせに合コンに参加した。
しかし予想以上に悪く、それは酷く退屈な上に、不快なものだった。
その場の雰囲気に耐え切れず、つい飲みすぎてしまい、この有様だ。
いいことがない。
会の締め括り、真奈美は一人と意気投合したとか言って、この後バーで二人で飲むと耳打ちした。
他の知らない女の子たちも思い思いにお気に入りを見つけたり、またわたしと同じようにお酒だけを相手にしていたりしていたようだが、でもとにかく、わたしほど嫌な思いをした人はいないだろう。
―――二十歳の時の元彼と同姓同名の人がいた。
それも、元彼より断然格好良くて、正直タイプと言えばタイプだった。
ただ、彼は他の女の子にアプローチをかけられて乗っていたようだし、何より彼氏が元彼と同じ名前だなんて不吉にも程がある。
元彼、もとい初めての彼氏であった水島藤也とは最悪な別れ方をした。
当時彼はいわゆるチャラ男で、彼は何度も浮気を繰り返し、わたしはその度に泣かされた。
正直、九年経って思い返すと、藤也よりむしろわたしのほうが馬鹿だった。
友人には「男を見る目がない」と散々説教を喰らったというのに、恋は盲目というのはまさにその通りで、藤也にはたまに第二の女が必要になるだけで自分は常に第一だと過信していた。
結局半年程付き合って、藤也から「お前は第一どころか第三にもなれない」と、わたしの自惚れを見透かしたような売り言葉を投げられて別れたのだ。
それ以来、わたしは何人かの男性から告白を受けてきたが、藤也に振られたダメージを引きずってしまい、たまには気分転換をしろと自分に言い聞かせて乗り気はなくも付き合ってはみたが、やはり上っ面さえ作れず、「俺とは遊びだったんだろう」とか「自分の調子のいい時だけ付き合えればいいんだろう」とか、それまた罵声を浴びて別れることとなった。
もう恋愛なんてしない。
もしするならば、絵に描いたようなレディファーストのできる王子様にしようと決めた。
*
手洗い場の鏡で口元を確認し、手を洗ってからトイレを後にして地下鉄に乗ろうと再び人混みの中に戻ると、思いもよらない人を見つけてしまった。
気づかれないように急いで後ろを向いたが、手遅れだったようだ。
「望月さん!」
喧騒の中を大きな声で呼ばれ、仕方なく振り返る。
「……あら、水島さん。先程はどうも」
ぐっと口角を上げ、無理矢理笑顔を作り出す。
この苗字だって、発したくないというのに。
そそくさとわたしに近づくと、彼は小さく頭を垂れてから言った。
「後を付けるような真似をして申し訳ないです。ただ、解散時あなたがどうも具合悪そうに見えたので……どうしても心配で」
彼とは会の間中一切口を利かなかった。
まずそもそも彼にわたしの存在を知られないと思っていたので、まさか苗字を覚えられているとは思ってもいなかった。
その上、酔ってしまったことまで見透かされていたとは。
「気づいていらしたんですね。驚きました」
できるだけ表情を変えないように努めながら続ける。
「せっかくいい雰囲気の方がいらしたのに、わたしったら邪魔をしてしまったのかしら」
「違いますっ」
慌てて首を振る様は、子犬の身震いにも似ていて、可愛らしくも見えた。
「あ、えっと……」
彼は何か釈明したさそうに、でもその言葉を宙の中から探している。
きょろきょろと視線を慌ただしく泳がせるその動作を、わたしは惹きつけられるように見入ってしまった。
年は幾つだろうか。
会の始めに全員で自己紹介をしたのだが、フルネームを聞いた瞬間に頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けてしまい、年齢だとか趣味だとか、ありきたりな内容はすっかり記憶から遠ざかってしまった。
さらさらな黒髪に真っ黒でくっきりした瞳が幼げでもあるが、きりりと結ばれたネクタイとか、上質であることがスーツには疎いわたしでも明らかであることとかを考慮しても、わたしと同じくらいか上であろう。
「僕、数合わせに呼ばれただけなんです」
やがて彼は適当な言葉を見つけたようで、小さく俯き加減にそう零した。
ああ、彼女がいるのか。
何か胸に刺さるような感覚を覚え、……違う、と心に言い聞かせる。
「ふふ、数合わせなのにあんなレディを無下にしないなんて、素敵ですね」
必死に余裕を匂わせながら、言葉を紡ぐ。
でも、本心でもあった。
彼の身なり、言葉遣い、そして女性の扱い方……どれを取っても、紳士だ。
わたしが「もしもする恋愛」を思い描くなら、彼は名前以外ぴったりだった。
そしてその心の隙を狙うかのように、斜め上からわたしを見下ろすもう一人の「わたし」がサイレンを鳴らす。
“藤也の二の舞を踏むぞ!”
*
―――そう、藤也も付き合う前は「紳士」だった。
藤也とは、ゼミの先輩に誘われて参加した合コンで知り合った。
わたしは物心ついた時から人見知りな質で、先輩の誘いだからと断れずに参加したはいいがやはりその場の雰囲気に溶け込むことはできなかったが、彼は幹事を務めていたので目に付いた。
わたしの大学より頭のいい大学に通っていながら、まさに青春を謳歌する今時らしい、柔らかなウェーブがかった茶髪をした、それでいながら幹事としての会の回し方だとか話題提供だとか―――特にわたしに対しての扱いは、まさに気配りのできる「紳士」だったのだ。
口数の少ないわたしを二次会に誘い、積極的に話しかけてくれたのも彼だ。
付き合いを持ちかけたのも彼で、しばらくは幹事の時の紳士っぷりを発揮してくれたのだが、わたしが次第にそれに慣れて藤也に対して人見知りをしなくなってからは、先述の通り。
なんだか、似ている。
それがとても危なっかしく、そして何故か心惹かれるのである。
吊り橋効果というやつだろうか。
それも、明らかに古びた木製の橋。
そんなの、不吉にも程がある。
目の前にいる水島藤也は本物の王子様かもしれないが、とにかくわたしの心の瘡蓋を敢えて抉る必要はないはずだ。
恋愛は、必要ない。
もしもするなら、それは一瞬で魔法をかけて記憶さえも変えてしまうような、混じり気のない王子様にしよう。
わたしは最初に、この彼に鈍器で殴られたのだ。
たとえ「名前」という、悪気のないものにしても。
それなのに吊り橋を渡る必要があるのだろうか、そんな答えは考えなくても明らかだった。
*
「……さん?望月さん?」
「え?」
「大丈夫ですか?何線でお帰りですか?」
どうやらぼんやりしていたらしい、目の前の水島藤也がわたしの顔を覗き込んで心配そうに尋ねる。
「すみません、なんでもありません。えと、東西線ですけど」
心配などされたくない。辛うじて彼の問に答えると、間髪入れずに
「では送らせてください」
と、顔色ひとつ変えずに言うのだった。
「そんな必要はありません。今日はちょっと嫌なことがあっただけで」
ちょっと語気が強くなるのを感じながら、ああ自分はなんて愚かしいのだろうと嫌気が差す。
ただ、すすきのの喧騒はそんなわたしを、埃の中に隠して一瞬の風で飛ばしてしまうのだ。
彼には届かない。
「それなら尚更です。悪酔いが悪化する」
「とにかく!嫌なんです、あなたと居るの」
今度は声を荒げすぎたのか、付近の数人がこちらに目を向ける。
ただ、誰もくどくどしくわたしたちの行く末を見届けようとする人はいなかった。
みんな自分の世界を持っている。
わたしだけが、過去という繭に自ら入り込んで、羽化する気もなくうじうじと泣いているのだ。
さすがに彼も堪えたのか、何も言わずに足元に目を落としている。
「……それじゃ」
今のうちだ。
踵を返し、地下鉄の改札へと足を向けた瞬間だった。
はじめは空耳だと思った。いや、幻聴か。
わたしが何度も心地よさを感じてきた、そしてその後も何年も頭の中で繰り返し再生してきた声音に似た音がする。
「美憂」
今度ははっきりと聞こえた。
どくん、と心臓が高鳴るのを自覚しながら、緩慢に振り返る。
子どもの喧嘩の後のように、はっきりと傷ついた顔をした水島藤也がわたしの後ろに立っていた。
「まさかとは思ったけど、やっぱり俺のこと、わからないんだな」
ゆっくりと、子どもに言い聞かせるように落とされた言の葉が、ひらひらとわたしの前を舞う。
「同姓同名なんかじゃない、僕は、美憂のことを傷つけた水島藤也だ」
フラッシュバックが起こる。
わたしに笑いかける藤也、柔らかな茶髪の感触、そして最後の凍てる眼付と反復される言葉。
“お前は第一どころか第三にもなれない”
嘘だ。夢だ。わたしは物事を都合のいいいように解釈する癖がきっとあるんだ。
頭の中を、掻き集めきれないほどの言葉が支配する。
人はパニックに陥った時、よく「頭が真っ白になる」なんて言うけれど、そんなのは実際違う。
プログラミングページのように、びっしりと文字が脳を埋め尽くして、真っ黒になるのだ。
暗闇に似ている。
一人暮らしのアパートのブレーカーが落ちた時、あの一瞬で心がどうしようもなくなる感じに似ている。
「信じてもらえないと思うけど、美憂にひどい事を言ったのは、他の女に言われたんだ……“藤也は第三にはなれても第一どころか第二にもなれない”って。今なら馬鹿だったって思うけど、あんなこと言ったけど、それでも君は俺についてきてくれると思っていた。
だけど純粋に君を傷つけた。それが分かってから、更生……って言うのかな、とにかく、もう誰とも付き合わなくなった。形から入ろうと思って、髪も戻したし立ち振舞いもあからさまに変えるようにした。―――美憂のさらさらな黒髪とか、内気で、でも俺には花を開かせて話してくれたこととか、毎日のように考えてたら、自然とそうなったっていうのもあるかな」
彼の言葉が耳の中を流れるとともに、わたしの頭の中の電気が少しずつ点っていく。
そっと顔を上げてみると、藤也はとても穏やかな顔をしてこちらを見ていた。
彼も、わたしも、同じくらい愚かしくて、同じくらい愛しかったのだろう。
「藤也」
小さく、小さく、彼に届くか届かないかわからないくらいに、九年間も忘れられないくらい愛しかった名前を呟いてみる。
すすきのの溢れんばかりの人も、月も、誰もわたしたちを見ていなかった。
Fin.