第二話 勝負の様子
そしてその日も、紅藍は藍銅の下に突撃していた。
訪れる?そんな可愛らしい言葉ではすまされない、文字通り突撃。
「お~ほほほほほほ! よくぞ逃げずに来たわね! 褒めて使わすわっ」
たとえ、自分から来たにも関わらず、藍銅の方から来たと紅藍が信じて疑わなかろうと。
ーー記憶障害か?
「いや、もうどうでも良いから、さっさと終わらせるぞ」
こうなったらもう、勝負を行わなければ紅藍は帰らない。
たとえそれがつかの間の安息しかもたらさぬと分かっていても、藍銅はその一時が欲しい。
連日明け方に殴りこみをかけられた身はもはや寝不足。
寝不足で苛々しすぎて、このままでは目の前の我が儘姫を殺ってしまうかもしれない。
そうーープチッと。
四妃仲間の賢妃には叶わぬが、藍銅もそれなりの武闘派である。
満足に護身術さえ習っていない紅藍を殺る事など、赤子の手をひねるほど簡単だ。
むしろ、本来の藍銅であればとっくの昔にやっている。
プチッと。
藍銅らしくない。
そんな事は誰に言われなくとも藍銅自身が分かっている。
けれど、そんな自分らしくない自分は、こうしてこの我が儘のバカ姫の戯言に付き合っているのだ。
ああ、だるい、かったるい。
今もギャアギャアと何かを高らかに喚いている紅藍を無視し、藍銅は溜め息をつく。
果たして今回でこの少女から解放されるだろうか?
いや、されない、絶対にされない。
藍銅の鋭すぎる勘が警告する。
「今日こそはこの私が勝つんだからねっ」
「……勝負は」
そう告げた藍銅に、紅藍はカッと目を見開いた。
「水泳勝負よっ!」
「は?」
「はんっ! 海国の神ともいえば、泳ぎが出来て当然の事!」
確かに出来て当然だろう。
むしろ出来ない神の方が珍しい。
そして、本来であれば別に泳げなくても大丈夫だ。
だって、水の中でも息が出来るからーー神力さえ制限されてなければ、そして天界十三世界以外の世界であれば。
ーーああ、だから此処にこいつは自分を引き摺ってきたのか。
藍銅は今居る場所ーー自分の宮のすぐ近くにある池の前で脱力した。
結構深いそこは、藍銅の身長ぐらいの水深があった。
泳げない者が入れば、まず間違いなく溺れる。
「お~ほほほほほほ! この日の為に買いそろえたこの戦闘服を披露する時が着たわっ」
そう言って紅藍が自分の服に手をかけ、バッと空に向けて投げ捨てる。
現れたのはーー。
「え? 何そのチョイスっ?!」
スクール水着。
胸元には、きちんと紅藍の名前も入っていた。
「勝負水着にこれほど相応しい水着は無いと聞いたわっ」
何の勝負だ。
そしてどういう方向性の勝負だ。
というか、それ、小学生用の水着だろ。
確か人間界のいかがわしい写真集で、ロリ巨乳が着ていたのが確かその水着で。
題名は……いや、そこを思い出してどうする。
ただ、小学生の水着写真と銘打っていたが、どう見てもその体つきは子供のそれじゃなくて。
『……へぇ、そういうのが好きなんだ』
と、明らかにイタイ神を見る様な視線を王妃様から向けられた哀しい思い出まで蘇ってきた。
というか、それを最初に見てたのは陛下なのに!
自分達四妃は強引に巻き込まれただけなのに!
しかも最悪な事に、陛下にその写真集を押し付けられたし!
最終的に、四妃達がどこからか手に入れて来たと思われた、この悔しさ。
陛下は鬼だーー。
そう叫ぶ男妃達に、上層部の冷静な一言ーー『そんなの初めからだ』が下され、ぐうの音も出ないほどコテンパンにされた、あの日。
しかもその写真集の表紙の女が着てたのが、スクール水着。
女の色気ムンムンのダイナマイトボディが小さな水着でムッチムチとなり、その体の曲線がはっきりと分かる様は恐ろしい淫猥だった。
せり上がり、今にも零れそうな二つの大ぶりな白桃。
そして、形良い桃尻に食い込む紺色の布。
男なら誰もが股間を熱くさせる、大人の食べ物。
ただし、藍銅はこれっぽっちも反応しなかったが。
それは藍銅が悲惨な過去の経験によって『女』にされていたからではない。
間違っても男としての尊厳と矜持を踏みにじられていたからではない。
ただ、好みの女性ではなかったから。
好みの女でなければ反応しないーーなんていうロマンチストな考えを持っている藍銅は、そう断じた。
どうでも良い女になど反応などしない。
相手が誰だろうと反応するのが男ーーなんて言う馬鹿は男を愚弄している。
だから、だからーー。
自分が反応するのは、運命の相手だけだから。
「さあ! 勝負よっ」
真っ平らではなく、それなりに成長した体ではある。
顔だって、可愛い。
けど、けど。
(俺の体どうしたああぁぁぁぁあっ!)
下半身に血流が向かう。
目眩はきっと一気に血が下がったからで。
というか、こんなのは嘘だ。
なんで、なんで。
この女に俺の体は反応するんだあぁぁぁぁぁぁっ!
分厚い重ね着の女性物の衣装を身に纏っていて良かった。
寝起きを急襲されて引き摺られても、寝間着で外に出られるかと抵抗して良かった。
必死に衣装を身につけて良かった。
でなければ、藍銅の男を示す部分が丸わかりだっただろうから。
「淑妃! 勝負開始よっ」
「え、あ、あぇ?」
「ふっ! これが私の水泳デビューよぉっ!」
は?今のなんか台詞的におかしくねぇ?
なんて、突っ込む間もなく紅藍は水の中に飛び込んでいった。
「あれ? 今の飛び込んだのって紅藍姫?」
「騒がしいですね、朝から」
「今回は水泳勝負ですか」
騒ぎを聞き付けた四妃が、それぞれの取り巻き達を纏ってやってきた。
それも、夜着で。
蠱惑的な白い曲線美を包み込んだ薄い夜着姿は酷く艶めかしく、とても目に悪い。
いや、大部分の者達にとっては目の保養として良いのかもしれない。
が、その結末は考えなくとも分かる。
というか、いくら安全と言われている後宮とはいえ、そんな姿でウロつくのは余りにも警戒心皆無ではないか?
また、それぞれの主に習って他の男妃達もーーって、待て。
どう考えても、この池での騒ぎが聞こえない所に住む者達まで居る。
「……観戦しに来ただろ」
「もちろんです」
「もちろんだよ」
「きちんとお茶とお菓子も用意しました」
貴妃がにこりと微笑み、徳妃がニヤリと笑う。
トドメとばかりに、賢妃がお茶とお茶菓子の入った籠を持ち上げた。
藍銅の中で何かがブチンと切れた。
帰れと言ってやりたい。
いや、言おう、何としてもーー。
だが、その前に紅藍をどうにかしなければ。
以前も貴妃達との別の戦いを勃発させた際、ほっとかれる形となった紅藍が五月蠅いぐらい喚き散らした。
そうして藍銅が池へと視線を向けた時だった。
「……」
なんだか水の中でモガモガともがいていた紅藍。
池の水は限りなく透き通っている為、水面が揺らいでいてもかなり下まで見通せる。
そうして藍銅が水の中の紅藍を見付けて十秒もしないうちに。
ゴボゴボゴボゴボォォォ
大量の気泡を吐き、ガクリと項垂れて沈んでいく紅藍。
あれ?もしかして溺れてる?
「もしかしなくても溺れてるだろっ!」
自分の疑問に自分でツッコミをいれ、藍銅は池に飛び込んだ。
そうして間も無く引き上げられた紅藍はそのまま藍銅に蘇生処置をされ、息を吹き返す。
そして息を吐いて一言。
「はぁ、はあ、はぁ……み、見た?! この私の華麗なる泳ぎをっ」
溺れて死にかけてのその一言。
「なかなかに根性がありますね」
貴妃の言葉に、取り巻き達が口元を引きつらせていた。
うん、たぶん正常な反応は取り巻き達の方だろう。
「い、言っとくけど、お、溺れてなんか居ないんだからねっ! ふんっ」
え?何そのツンデレ発言?
「い、意識が遠のきかけながら『助けて』なんて言ってないんだからっ」
「言っても聞こえないし。しかも、水の中で話したら肺に水が入るだろ」
「う、五月蠅いわよっ! とにかく、溺れてないわよっ!」
「どう見ても溺れてただろ」
「違うわ! あれは潜水艦水泳法というものでっ」
だから、なんでどうでも良い言葉だけは知っている。
そして潜水艦水泳法ってなんだ。
潜水はあるが、潜水艦は別のものだ。
しかもやっぱり沈んでるだろ。
それを告げれば、紅藍は鼻で笑った。
「潜水艦は沈むものでしょう! 浮上したら一撃でズドンよっ」
「……一生潜水してるわけじゃないぞ、したら死ぬぞ」
空気とか食料とか色々と無くなって。
そして、潜水艦という言葉は理解しているのか。
潜水は知らないくせに。
「と、とにかく! 私の方が沈んだ距離は長かったわっ」
いつから沈む勝負になった。
「お~ほほほほほほ! 吠え面かいて悔しがると良いわっ」
「……」
だから、沈む勝負じゃ。
「ま、まあ、助けてくれた事には礼を言うわ」
「……は?」
今のは幻聴だろうか?
余りにも小さくさらりと言われたーー。
「だから、助けてくれてありがとうって事よ!」
耳元で叫ばれ、耳がキンキンする。
鼓膜をぶち破る気か。
「まあとにかく、これで私の」
「ではこの勝負は無効という事ですね」
そこに爆弾を投じてくれたのが、賢妃だった。
これでめでたしめでたしで終わる筈だったかもしれないのに。
「どういう事よ!」
「ですから、無効という事です。命の危険性がある勝負は認めないと最初に決めた筈です」
いつ決めたーーと口にしようとして、腹部に賢妃から肘打ちの洗礼を受けた。
余計な事を言えば消される。
重ね着の衣装を身に纏っていても消えぬ威力に、藍銅は地面に沈んだ。
「あれ? 淑妃?」
紅藍が気づいたが、賢妃が動き藍銅を隠すように壁となる。
「紅藍姫、今回の勝負は途中であなたがおぼれかけたという事故が起きました。ですから、無効です」
「お、おぼれかけてなんか」
「でも、淑妃に礼を言いましたね、助けられた礼を。それは自分が危険な目にあっていたという事を認めるものですよ」
「っ!」
「ふふ、礼を言わなければ良かったですね」
賢妃が意地悪く笑ったその時、紅藍がクワッと目を見開いた。
「何よ! 助けられたら礼を言うのは当然の事でしょうがっ」
ーーそうか、そういう一般常識は、まあ、持っているのか。
けれどーー。
「な、なら別の勝負よ! 淑妃、第二ラウンド開始よっ」
今事故が起きかけたばかりなのに、すぐに新たな勝負を挑むそのバカさ加減は無駄なまでのバイタリティの強さからなのか。
「次は料理勝負よっ」
「却下」
藍銅は即座に拒否した。
というか、こいつは。
「前のリンゴの皮むき勝負での流血事件を忘れたのかっ」
なんでリンゴの皮むきだったのかは分からない。
ただ、一流の女性は料理も出来なければーーと、一般的な貴族の女性は料理なんてしないぞ、今は知らないけど、な常識とは相反する常識を盾にして挑まれた勝負。
が、先手でリンゴの皮を向いた藍銅の器用に苛立った紅藍が。
『わ、私の方が凄いんだからっ』
と、包丁を逆に持った。
つまり、刃の方をしっかりと握った。
「ふっ! リンゴの赤にも負けない美しい赤を披露したこの私に嫉妬?」
だから、なんでそんな所に詩学の勉強成果を。
ーーって、どうやらその事は覚えているらしい。
あの時の痛みを思い出したのか、目が涙目になっている。
「とにかく、やらないからなっ」
「敵前逃亡する気?! 逃がすものですかっ」
そうしてギャアギャア喚く紅藍との言い合いは暫く続き、終に疲れて折れた藍銅が紅藍の言うがままに勝負につきあいーー。
「うん、予想はしてた」
「今までどおりですね」
「全くもって何にも変わりません」
「どうしてよ! どうして負けるのよっ」
「しまった! つい」
とりあえず、この五月蠅いのから早く解放されたくて、いつも以上に本気で勝負した結果ーーやっぱり、藍銅が全勝してしまった。
項垂れた紅藍に、藍銅は恐る恐る声をかける。
「こ、紅藍、姫?」
「ふ、ふふふふ」
「ちょ、おい」
「ふふふふふふふ」
もしかして、壊れた?
と、紅藍がグバッと顔を上げた。
涙目で見上げながらも、その顔はーー。
「ぜ、絶対に、諦めないんだから」
「いや、その」
「これで私が諦めたら、私は淑妃に劣る女という称号を一生背負い続けるのよね」
「いや、背負わなくていいから」
降ろしていいからそれーーと言葉をかけようとした藍銅の鼻先に、紅藍がビシっと指をつきつける。
「絶対に諦めない! 絶対に絶対に、勝つまで諦めないんだからっ」
そうして泣きながら走り去った紅藍の宣言通り、次の日からの勝負は更に苛烈さを極めた。
というか、藍銅の苦労が増えただけで、周囲はそれほど迷惑したわけではなかったが。
「だから、なんで俺なんだよぉぉぉぉっ!」
それは、彼女の怨みの対象がお前だからーーと、四妃達は心の中だけで呟いたとか、呟かなかったとか。
だが、流石に疲労が重なってきた藍銅に動いたのは、このお神と。
「……そろそろまずいですねぇ」
四妃の最高位であり、後宮のドンーー貴妃。
このままでは、藍銅がブチッとしてプチッと行くのも間近だと危惧し、一策練る事にした。
が、それが余計に藍銅に疲労を与える事になるとはーー分かっていただろう。
分かっていてもやる、それが貴妃。
そうして、藍銅は貴妃から余計な重石を載せられる事となるのだった。