第二十六話 闇夜の襲撃
そこは、後宮の外れだった。
いや、正確に言うと、後宮の入り口付近だった。
王妃の宮がある場所からは程遠く、賢妃の宮からも逆方向と言える。
というか、なんでここに?
いつの間に此処に?
そこまで距離を歩いたかと思い出すも、答えはノーだ。
今居るのは、王妃の宮からそれほど離れていない場所だった。
なのに、気づけば後宮の入り口付近に居る。
それもなんだか良く分からないが……あまり良くない状況に、追い込まれた状態で。
「きゃあっ!」
飛んできたモノに悲鳴をあげた紅藍が、朝霧に抱かれて庇われる。
その見事な動きに息を呑んだ。
しかし今はそんな事を悠長にしている暇は無い。
ここは後宮の入り口付近。
とすれば、後宮の入り口を守る門番達からもそう離れていない筈。
だが、声を上げる暇もなく続く襲撃、天地左右が次々と変わるのを朝霧の腕の中で味わいう紅藍は、意識を失わないだけで精一杯だった。
代わりに、朝霧が闇に潜む襲撃者達へと対処する。
「よ、酔う」
「吐かないでよ」
どこかおどけた口調。
いつもとは完全に立場が逆転している。
「ってか、気持ち、悪くて……お、降ろして」
「降ろしたら首が飛ぶけど」
刃は紅藍の首を狙っている。
「でも、これ、だ、と助け、てって、声を、出、せない」
「こんだけ騒いでいれば心配しなくても誰か来るよ」
わざわざ叫ばなくても、これほどの騒ぎを聞き付ければ誰かが来るはず。
その前にこちらが襲撃者達にやられていなければ、きっと大丈夫だと朝霧は言う。
それよりも迫った危険に対処するべきだ。
しかも向こうは紅藍に対して明らかなる害意を持っている。
それも殺意という強力なもの。
その一方で、朝霧に対しては何とか捕縛しようという節が見えた。
姿は見えずとも、自分達を囲む気配から漂う穢らわしい欲望。
朝霧に向けるそれは、過去に彼を飼った者達と同じである。
そして、紅藍に向けるのは、朝霧の姉に奴らが向けていたものと同じ物。
彼らは紅藍を邪魔者として排除しようとし、朝霧を捕らえようとしている。
それが真の目的かは分からないが、とにかくこちらに殺意を向け害そうとしている時点で――いや、後宮に不法に侵入している時点で、奴らの運命は決まった。
間違って入ってきたなんて言い訳は聞かない。
害意が無かったなんて言い訳は聞かない。
今も伸ばされる手が。
今も突きつけられる刃が。
そして闇夜に紛れているくせに、もらすゲヒた笑いが。
その全てを証明している。
一方、紅藍は朝霧の腕の中でぶるりと体を震わせた。
荒い息。
血走った瞳。
欲望に塗れた穢らわしい光は、この闇夜ですら窺い知れる程に、自己主張する様に輝いている。
気持ち悪い。
穢らわしい。
こちらを完全に獲物として捉えている者達は、イヤらしい目つきで朝霧を見詰める。
その視線の強さに、欠片も彼らの視界に入っていないにも関わらず、その余波が紅藍におぞましさを覚えさせた。
ぎゅっと無意識にしがみつく紅藍に朝霧は不憫さを抱き、襲撃者達には吐気を覚えた。
たとえ処罰覚悟でも後宮に忍び込み男妃達を拉致しようとする者達は多い。
今襲っている輩もその手の輩か。
いや、そんな事はどうでも良い。
禁じられた場所に入った愚かな者達に残されたのはただ一つ。
「紅藍姫」
耳元で呼びかけられた紅藍が朝霧を見て息を呑んだ。
先程まで暗闇が怖い、幽霊が怖いと怯えていた美しい美姫はそこには居ない。
居るのは、深遠の闇よりも暗い光を宿した瞳を持つ佳神。
氷像の如き冷気を纏い、絶対零度の声音で囁く。
「離れていて、すぐに終わるから」
何かを言おうとして、でも結局何も言わずに迷い無く走り出した紅藍を、朝霧は満足げに見る。
ここに居ても、自分足手まといだと断じたのだろう。
ならば誰かを呼びに行くべきだと考えたのだろう。
正義感に溢れた紅藍姫。
無謀と猪突猛進を掛け合わせた様な姫君。
けれど――。
「王都での出来事か」
その結果、彼女は酷い痛みを受ける事となった。
だがその経験ゆえに、彼女は自分で気づかぬままに最善の道を走る。
だから朝霧は、せめて彼女が安全にたどり着けるように、襲撃者達を一手に引き受ける事にした。
それは労せずして叶えられる事となる。
どうやら、襲撃者達からすれば紅藍の殺害は二の次で、朝霧を捕らえる方が大切な様子だったから。
大きく呆れながら、朝霧は溜め息交じりに口を開いた。
「……さあ、来なよ」
言うまでも無く、一神残された朝霧を捕らえようとする幾本もの手が触手の様に絡みつこうとするその刹那。
一寸の狂いも無く、喉を切り裂く刃。
取り出した短剣で何の迷いも無く、朝霧は襲撃者達を屠っていく。
予想外の出来事に残った襲撃者達が距離を取った。
「お前達が何者かは知らない。けれど、お前達の行く末は分かるよ」
彼らは間違いを犯した。
「お前達は間違いを犯した。一つはこの聖域に入り込んだ事、一つはこの聖域で騒ぎを起こした事、そして最後は」
死刑宣告を告げる死に神の様な笑みを浮かべ、彼は言い放つ。
「この後宮の者を害そうとした事だ」
この様な危険な者達が、王妃様のおわす後宮に存在するだけでも許しがたい。
何よりも、陛下が造り上げて下さった後宮という聖域を揺るがす奴らを、朝霧は生かしておくつもりなど毛頭なかった。
この聖域を造り上げてくれた陛下に対して、こいつらは平然と牙を剥いた。
その無礼を、朝霧は許せるほど心広くはなかった。
大切な者は己で守れ――
いつもは穏やかでおっとりとした賢妃の言葉を思い出す。
陛下が造り上げてくれた聖域。
それを絶対のものとするのは、そこに住まう者達の努力もあってこそ。
朝霧は地面を蹴ると、一気に間合いを詰めて最も近くに居た襲撃者の喉を切り裂いた。
血飛沫が闇夜を赤く彩り、紅い靄となって周囲を覆う。
朝霧の剣舞が紅い花を咲かせていった。
「はぁはぁ、はぁ……んくっ」
一気に駆けた紅藍はようやく辿り着いた後宮門の壁に手をつき、息を整えた。
もちろんそんな事をしている暇は無いのだが、少しでも息を整えなければ窮状すら訴えられない。
何とか大きく深呼吸して乱れた息を整えながら、紅藍は素早く周囲に視線を向けた。
「はぁ……はぁ……?」
何だろうこの感じ。
紅藍は息を整えながら、周囲をキョロキョロと見回した。
静かすぎる。
それが、紅藍が最も強く抱いた思いだった。
後ろからは、騒音とまではいかないが、何やら争っている様な不自然な音が聞こえている。
当たり前だ、ここからあまり遠くない場所で朝霧が戦っているのだから。
そう――朝霧が危険にさらされている、今この時も――。
その点に改めて思い至った紅藍は、ふと自分の行動に疑問を覚えた。
何故、あの時、自分は一神で逃げ出す様に走り出したのだろうと。
離れていてと言われたが、だからといってその通りにすれば朝霧一神があの場に残される事となる。
見捨てたも同然の行為。
けれど――と、紅藍は思い返す。
紅藍に離れていろと言った時の朝霧の顔。
向けられた瞳。
それを見て、紅藍は大丈夫だと思ったのだ。
朝霧なら、大丈夫。
紅藍が助けを呼んでくるまで、無事で居ると。
だから紅藍はすぐさま走り出した。
助けを求めるために。
一目散に、後ろを確かめる事もなく一番近い後宮の門へと向かって駆け出した。
そう……朝霧の窮地を救うには、一刻も早く助けを呼んで戻らなければならない。
それに、こうして紅藍が無事に門までたどり着けたのは、追っ手が居なかったからだ。
それは朝霧が追っ手を防いでくれたという事に他ならないが、同時に朝霧の危険性をより深めるものでもある。
だから、はやく、はやく助けを。
なのに、今周囲は不気味なまでに静まり返っている。
遠くで聞こえてくる襲撃者達が鳴らす音が聞こえなければ、何の音もしなかっただろう。 静寂の中に、ただ一神。
まるでこの世にたった一神だけ残された様な錯覚さえ覚える。
と、遠くで聞こえていた音すらもいつの間にか聞こえなくなっていた。
驚いて意識を集中させるが――聞こえない。
なんで?なんで?
音が、無い。
それが恐ろしく不気味で、怖くて、恐ろしくて。
何でも良いから音をと、誰かと呼んでも音は返って来ない。
走り出して、門に辿り着く。
門の詰め所の扉に手をかけた。
ガチャ、ガチャ、ガチャ――。
そんな音を立てるだけで、一向に開かない扉。
叫んで、叩いても。
音は闇の中に吸いこまれていく。
「誰、かぁっ!」
誰も居ない。
誰も来ない。
たった一神で紅藍は助けを求め続ける。
声を枯らして。
手が真っ赤になっても叩き続ける。
王妃の宮ならば誰か居るかもしれない――と考える程の余裕もなく。
いや、もし余裕があったとしても、ここからでは王妃の宮は遠すぎる。
そして王妃の宮に行くには、再び襲撃者達の居る場所を通らなければならない。
戻れない。
進むしかない。
しかし、ここから助けを求められる場所は此処しかない。
固く閉ざされた門。
そこを開けてもらうには、詰め所から操作しなければならない。
けれどその詰め所の扉自体が開かなかった。
これでは外の助けを呼ぶことは無理だが、同時に確信もあった。
後宮の門という重要箇所を司るこの場所。
門の開閉を行う場所に、誰も居ないなんて言う事は考えられない。
だから、絶対に居る。
絶対に、絶対に。
居る筈の相手に向けて、助けを求める為に紅藍は扉を叩き続けた。
それは闇の中、哀しく響き渡った。
そういえば――昔もこんな事があった気がする。
そう、暗い暗い闇の中で。
紅藍はまだ幼くて、小さくて。
でも、必死になって助けを求めた。
助けようとした。
もう、手遅れだと分かっていても。
ぶらぶらと揺れる振り子時計。
力なく揺れる、モノ。
振り子時計の様に、左右に揺れる。
手が届かない。
必死に背伸びをして、指で触れようとする。
助けて、助けて、助けて
お願いだから、助けて
お願い、お願い
お願いだから、――を
「あれ?まだ生きてんの?これ」
聞こえてきた声に、振り向いた紅藍の瞳に映ったのは。
「死ねよ、とっとと」
「っ――」
振りかざされた刃。
「うちの主に向けた暴挙、死を持って償え」
腕を掴まれ、扉に押し付けられて刀が振り下ろされる。
ガンッと額を打ち付けた衝撃に、恐怖よりも目眩を覚えた。
刃が、肉に食い込み切り裂き、血飛沫が舞う
筈だった。
悲鳴、怒号、グシャッという奇妙な音。
許しを請う声が響き、ほどなく聞こえなくなった。
「……一体、お前は何をしている」
「……」
凍える声音。
冷たい無表情の顔。
顔に触れるひんやりとした指先。
それが、紅藍の頬を滑り、そのまま顎を掴まれついっと上向かされる。
今まで見た事の無い、淑妃の顔が見えた。
それに恐怖を覚えるよりも、湧き上がった感情は安堵。
助かった――
何故淑妃がここに居るのかとか。
さっきの許しを請う声は自分を殺そうとした相手のものなのかとか。
いや、それよりも朝霧を、朝霧を。
「朝霧妃を、助、け――」
とっくに押さえつける手が消えていた。
それでも、何とか体を支えていた足からは終に力が抜け、ずるずると重力に従って崩れ落ちていく紅藍は最後にそれだけを伝え、そして暗闇に意識を委ねた。




