第二話 あの日の間違い 後編
――そう、もう二度と、来るつもりはなかったのに。
懐かしさを覚える間も無く、紅藍達は荘厳たる海国王宮へと向かってひた走る。
「紅藍様っ」
「はやくこちらにっ」
腕をひかれ、もつれる足をひきずるようにして王宮の門へと向かう。
背後で起きた爆発を受け、転がり込む様に門前に辿り着いた自分達に、門番達の手が伸ばされた。
「走れっ!」
すぐ後ろに迫る、黒装束の男達。
既に大門を抜けたというのに、それでも諦める事なく紅藍達を追い掛ける。
しかしただでさえ傷だらけの体となり、更には爆発の余波を受けた体では満足に動けず、中には足に怪我を負い蹲る者も居た。
そうでなくとも、休み無く夜をかけ続けた強行軍で疲労はピークに達している。
そんな哀れな子羊達を狩るべく迫る男達の手に握られた刀が、ギラリと妖しく光る。
と――、男達の前に立ちはだかったのは、この大門を守り手数神。
すぐさま始まった激しい戦闘。
それを信じられない気持ちで呆然と見守る。
しかし、信じられずともこれが現実だ。
ここは王宮の正門たる大門。
王都に入る前ならばまだしも、王都の、しかも王宮の前でこんな騒動を引き起こすなど普通に考えてあり得ない。
特に、今回のように秘密裏に目的のものを奪取しなければならない状況では、それを知る者達すらも闇に葬らなければならない――。
しかし、紅藍達だけならばまだしも、既に門番達まで加わっているとすれば、彼らの命も奪わなければならないだろう。
だが、それは赦されない。
必ずや、王が出てくる。
その王まで殺す事は相手側が望んだとしても、実行は不可能だ。
それに、確実に謀反と見なされるだろう。
だからこそ、分かる。
それほどまでに、彼らは追い詰められているという事を――。
激しい剣戟が夜空に響き渡る中、奥から駆けてきた武官達が紅藍達を保護した。
「大丈夫か?」
「連絡は受けている」
その言葉に、紅藍は叫んだ。
「陛下にお目通りをっ!」
背後で悲鳴が上がり、振り返った紅藍の目に血飛沫が飛ぶのが見えた。
「ぐわっ!」
「しまった! 突破されたっ」
黒装束の男が一神、一直線に駆けてくる。
紅藍の手の中にあるものを狙って。
「っ――」
武官達が間に入る間もなく、間合いを詰められた。
「下がれ、下郎」
玲瓏なる声が響き、ゴトンと何かが目の前に転がった。
それが黒装束の男のものだと知り、悲鳴が喉をついて出そうになった。
しかし、それを必死に飲み込み紅藍は現状を把握する。
眼の前に悠然と立つ存在に、思わず居住まいを正す。
「私ならここに居る」
海王陛下――
黒装束の男達でさえ、その美貌の前には思わずその動きを止める。
艶麗で涼やかな美貌が、冷たい微笑を浮かべていた。
その笑みに見とれ思わず動きを止めた紅藍だったが、何とか自分を叱咤して我に返った。
そして、守ってきたものを差し出す。
「――領夫神、紅藍。我が夫である領主の死去に伴い生まれた混乱を収めるべく、一度我が領地の支配権を陛下に返上いたします!」
それはもはや悲鳴にも似た叫び。
下された答えは。
「分かった。只今をもって、――領は王の支配下とする」
初めて目にする柔らかな笑みと共にかけられた言葉に、紅藍の頬を涙が伝う。
それとほぼ同時。
側に居た彼ら――紅藍と共にこの場所まで来た者達から歓声が沸き立った。
★
今から半年前、夫が亡くなった。
死因は腹上死だ。
久しぶりに領地に帰ってきた夫は、多くの妾達を引き連れいつもの様に楽しんでいた最中に亡くなった。
そうして葬儀もしないうちに、次の領主の地位を巡って争いが起きた。
夫の配下達に加え、夫の親族達が激しく争い領主の証である指輪を巡って戦った。
謀略、裏切り、実力行使に何でもありだった。
それに伴い、領地は急激に荒廃していった。
領主の地位を奪う力を得るために略取は増大し、治安を守る力は政敵を討つ為に注がれた。
そんな中、正妻とはいえ名ばかりの妻である紅藍には、何の力もなかった。
夫の不興を買い、十年ほど前からは市政に降ろされて一般市民となんら変わりない生活をしてきた紅藍が、ただその争いを見ているだけしか出来なかったのは言うまでも無い。
それが、領主の指輪を屋敷から奪い、志同じくする者達と王宮に逃亡するに至ったのは、二月前の事。
当時、領主の座を狙う者達の横暴は、遂には領地の民達の虐殺にまで及んでいった。
私兵を動かして金品を奪い、女子供や美しい男達を略奪し、民達を奴隷として酷使した彼らに遂に耐えられなくなったある一つの街が反抗し、そして皆殺しにされた。
それを受け、紅藍は飛び出していた。
もう、これ以上は耐えられない。
王宮に訴え出られる事を恐れ、領地の外どころかそれぞれの街の外に出られないようにした彼らはある意味高をくくっていた。
その隙をつき、指輪を奪った紅藍は調査に来ていた王の影や志同じくする者達の助力を得て、王宮へと向かった。
領主の指輪を王に届け、一時領地の支配権を国に戻すためだ。
そうすれば、彼らがいくら争ったところで無意味となる。
当然彼らはそれを阻もうとし、紅藍達は死にものぐるいで逃げ続ける事となった。
そうして一ヶ月かかるところを倍の二ヶ月かけて、王宮に辿り着いた。
と、ここで不思議に思うかも知れないが、王の影が居るならば何故彼に指輪を預けなかったのか?という疑問が出てくるだろう。
確かに影の方が万全ならば、自分もそうしただろう。
けれど、その影は侵入時にヘマを踏んだとかで大怪我をして万全の状態ではなく、指輪を抱えて逃げ切れる可能性は低かったからだ。
指輪を彼が持ったと分かれば当然追っ手はそちらに向かうが、あの時の彼の状態では逃げ切れたか分からない。
だから先に一神王宮に戻って貰い、王に全てを伝えてもらう事にした。
そうしてもし余力があれば、領地で苦しむ民達への援軍を差し向けてくれる事を願った。
そしてそれは、無事に果たされたらしい。
傷を負っていたが、それでも飛ぶように戻った影によりすぐさま領地に兵士達は差し向けられ、今では多くが解放に向かっているという。
それを寝台の上で聞きながら、紅藍は王の沙汰を待った。
「紅藍様……」
心配げに紅藍の側に侍るのは、あの地獄の様な場所から共に駆けてきた民の一神。
お下げの髪の平凡な容姿の少女が、王に指輪を渡してすぐに倒れた紅藍を世話してくれた。
「もうすぐ王宮に来て、二週間目ですね」
「そうね……」
もうそろそろ、沙汰が下されるだろう。
「あ、あの、紅藍様は」
「ん?」
「……その、王都に留まるんですか?」
「え?」
少女の言葉に紅藍は首を傾げた。
「その、紅藍様は元々この王都のご出身です。領主様が亡くなられて、領地もあんな事になって……だから、その、紅藍様は王都に戻ってもう戻られないんじゃないかって、皆が」
確かに、紅藍は王都から来た。
しかし……。
「あ、あの、また来て下さいますよね?」
「え?」
「戻っても、私達の街にまたっ!」
彼女は何を言っているのだろう?
キョトンとする自分に、彼女は必死な様子で言葉を続けた。
「紅藍様は私達の恩神だから」
「夫一神止められなかったのに?」
「それはっ! でも、紅藍様は陛下に訴えて下さいましたっ」
命をかけて、領地の支配権を王に返上した。
「それだけじゃありません! 紅藍様は――」
「……ありがとう」
にっこりと笑い、少女に礼を言う。
「そうね、また行きたいね……」
あそこは、確かに紅藍にとっての故郷だった。
市政に降ろされてからは、特にそう。
何も分からぬ紅藍を笑う者達は多かったが、それでも貴族の姫としてのプライドをかなぐり捨てて必死に生活を営んでいる姿に、彼らの中で何かが変わってきたのだろう。
少しずつ歩み寄り、紅藍も近づいてきた彼らと交流を持った。
まあ――貴族の姫にも関わらず、意外に家事が出来たとか、おばあちゃんの知恵的な事を知っていた事も原因の一つだろう、が。
これは淑妃に感謝である。
というのも、紅藍が家事が一応神並に出来るようになったのも、色々と知恵を覚えたのも、淑妃に叩き込まれたからである。
『馬鹿! 熱した鍋を素手で持つアホウがどこに居るっ!』
『その汁を捨てるなっ! もったいないだろうボケェ!!』
『布団はきちんと干せっ!』
――意外にスパルタ教師だった。
何度ハリセンで殴られた事か。
紅藍が貴族の姫だって言う事を完全に忘れていただろう、淑妃は。
まあ――地位や身分的には淑妃の方が断然上であるが。
誰に習ったのと問われる度に涙ぐむ紅藍に、歩み寄ってきた街の者達がソッと慰めてくれたのも記憶に新しい。
ここに居て良いからね――。
そう言ってくれたのは、確か面倒見の良い町長の奥方だったと思う。
けれど、それは叶わぬ夢だろう。
紅藍は領主の正妻。
たとえ名ばかりといえ、正式な妻だった。
それが夫の生前の暴挙を止められず、死後に起きた争いを止めるどころかただ眺めているだけしか出来なかった。
そして引き起こされた、地獄。
その贖いは、紅藍にも求められる。
そして全てを、命すら失うだろう。
けれど、それに対する恐怖も、こんな私にも残されたものがあったという事実の前にはあっけなく霧散した。
だから、心からの礼を告げた。
そして終わりの時がやって来る。
「――領、前領主夫神――紅藍殿。どうぞ、謁見の間へ」
自分に下されるのは、死罪。
それしかないと思っていた。
「久しぶりだな――紅藍」
開口一番、王の言葉に心底恐縮する。
謁見の間。
といっても、公式の行事や他国からの使者の来訪時などで使われる数百人は入る方ではなく、ごく個神的な謁見を行う小さい部屋の方だった。
とはいえ、こうして紅藍が入るのは初めてだが。
因みに入った事がないのに詳しいのは、以前四妃から教えられたからである。
そんな内部事情を話していいのかと呆れれば、別に隠すほどの内部事情でも無いと言われ、逆に鼻で笑われた。
その筆頭が徳妃で、紅藍は徳妃とも大喧嘩したのだが。
今思えば、自分はとんでもない不敬罪ばかりしてきた気がする。
そんな恐れ多い気持ちで、平伏した状態からそろそろと顔を上げる。
十メートルは離れた壇上の椅子に座った陛下が、宰相を隣にこちらを見下ろしていた。
相変わらず無表情だが、その完璧な美貌に息を呑む。
そういえば、昔もそうだった。
久しぶりと言った陛下。
そう――紅藍と陛下は初対面ではない。
淑妃の所に毎日の様に勝負を挑む中で、陛下とも面識を持った。
といっても、陛下はただ四妃の所に居る王妃様に会いに来ただけだが。
ただ丁度その時、顔色が優れず常に憂いを帯びていた王妃様は、自分と淑妃の勝負を見ているうちに次第に笑顔を見せられるようになった――らしい。
というのは、後から四妃からその事を聞くまで紅藍が気づかなかったからだ。
そうして声を上げて笑われるようになった事に一番驚いたのが王であり、その原因を作ったのが紅藍だとして、なぜだかお褒めの言葉まで貰ってしまった。
王は王妃様を寵愛している。
それも、妄執とも言えるほどの愛を注いでいる。
そんな王にとって、王妃様の元気の無い姿は胸をかきむしりたくなるほど苦しいものだったのだろう。
しかし、元気になったらなったで、王妃様にプロレス技というものを決められていた王を思い出せば、果たしてそれで良かったのか。
王と会ったのは、片手で数える程度。
けれど王は、それでも自分の事を覚えていて下さった。
その事実に、紅藍の目から涙が流れ落ちる。
「今回の事は大義だった」
「陛下……」
「聞いた。命をかけて、追っ手から指輪を守り抜いたと。それに、一神も死なせずにここに辿り着いたその采配は中々のものだ」
「それは私だけの力ではありません! 皆が、頑張ってくれたから」
下手すれば殺されるかもしれないのに、自分を信じてついてきてくれた者達。
彼らを死なせずこの王宮にたどり着けた事は、本当に奇跡だった。
思わず感情的になり声を上げたところで我に返り、紅藍は慌てて平伏した。
「も、申し訳ありませんっ!」
「いや――思ったよりは元気そうで良かった」
最後は小さすぎて聞こえなかったが、怒りの気配は感じられず無意識にホッと息を吐いていた。
しかし、すぐに下されるだろう沙汰を思えば――。
「今回の件だが」
来た――。
思った以上にすぐだったが、ある程度覚悟していた。
「あ、あの、民達の事は」
「それについては、新たな領主を送る予定で。それに、復興として新たに必要な神材を送る。そろそろ第二陣が出発するだろう。それに、必要な物資も第三陣が準備を行っている」
「そ、そうですか……」
到底王に向けた言葉ではないが、思わず零れた素の自分の言葉がストンと胸に落ちる。
ならばもう、心残りはない。
「今回の件に関わった者達の捕縛も現在行っているが、たぶんまだまだ出るだろうな。癒着している者達、資金源となった者達などゴロゴロ居る」
「……」
「まあお前の亡くなった夫の親族は、その九割方は処罰対象となる」
「……はい」
九割――という事は、一割は関わっていなかったか、それとも証拠がなくて処罰出来ないか。
「それで紅藍、お前についてだが」
「分かっております」
紅藍は顔を上げ、王を見上げた。
「私は前領主の正妻。今回の騒動を止める立場でありながら、ただ見ているだけしか出来ませんでした。それは、立派に今回の件に関わったという事――いえ、騒動を引き起こした者達よりも非道な振る舞いです」
我が身の可愛さを優先して、紅藍は動かなかった。
名ばかりの妻だから、市政に降ろされていたから。
そんなのは言い訳である。
もっとはやくに動けていれば、これほどまでに被害は広がらなかった。
あの時動いていたとしてもたどり着けたか分からないという者も居るかもしれない。
けれど今回、こうして無事に届けることが出来たのだ。
それを考えれば、よりもっとはやく動かなかった事を悔やむ。
『ってか、なんで私がこんな事まで勉強しなきゃならないのよっ!』
『馬鹿! お前は貴族だろう! 貴族は民にない力で、いざとなれば民を守る為に動かなければならないんだぞっ!』
そう言って怒った淑妃に、当時の紅藍はぶつぶつ文句を言いながら勉強させられた。
けれどあの時もっと真剣に学んでいれば良かった。
そうすれば、もっと、もっと――。
「紅藍――」
「どんな罰だろうと、受け入れます」
実際に手を下さずとも、間接的に紅藍は民達の殺害に手を貸したのだ。
傍観という、罪に手を染めた。
「罰、か――」
「……」
「確かにその罪は重いだろう。ただし、お前に対しては減刑、いや、無罪嘆願が来ている」
「え?」
「今回共に来た民達、そして現在領地に残った民達の一部から」
何を――。
「確かに、今回のお前の働きはその傍観の罪を贖うものだろう」
「それは違いますっ! 私はっ」
言い募ろうとする紅藍を、王が制する。
「総合的に見て、お前の罪は相殺される。つまり、罪の消滅だ」
「なっ――」
「だが、それではお前は納得しない。しかし、お前を罰せば民達が納得しない。知っているか? 領地では前領主夫神のお前が命をかけて王に嘆願し、今回の解放に繋がったと噂になっている」
「え?」
それは、どういう――。
けれど、王の楽しげな笑みに全てを理解した。
「まさか、その、噂は」
ククっと口の端を上げて笑う王に、紅藍は呆然とした。
その噂を流したのは、陛下だ。
民達からの嘆願をより集めるために。
民達の、紅藍への心情を同情的なものへと変えるために。
たとえ領主の正妻だろうと、自分達の為に命をかけて動いてくれた相手は簡単に英雄へと持ち上げられる。
そんな相手を罰しようとすれば、民達は当然の如く怒るだろう。
そして王と言えど、功労者を罰する事は出来ない。
「陛下……」
不敵に笑う王に背筋がゾクリとする。
民達でさえも、自分の思うがままに操る手腕、そして一切の迷いの無さに恐怖さえ覚える。
「恐ろしいか?」
「え?」
「だが、絶対的な正義など無い。今日の英雄は明日の愚物に、今日の愚物は明日の英雄になる。特に大戦時代などそうだった」
「あ……」
「また大戦が終わったからといって、正義は絶対的なものではない」
「陛下、それは」
「こちらにとっての正義でも、相手にとっては違う。俺は俺の正義と思う事をしただけだ」
そう言うと、隣に立つ宰相に視線を向ける王。
儚げで神秘的な美貌の宰相が無言で頷いた。
「ただ、だからといって完全に無罪放免で今日から自由という事にはならないがな」
そう言うと、王は自分をじっくりと眺める。
その視線に耐えきれず顔を伏せた紅藍に、王の言葉が下される。
「今回の事でお前は英雄だ。加えて、紅藍、お前は前領主の正夫神。そのお前を利用し、新たな領主となろうとする者はわんさか出てくるだろう」
思わず顔をあげた紅藍に、王は淡々と告げる。
「お前が望もうと望まなかろうと、権力に執着する者達はどんな手を使ってでものし上がる。しかもまだ新しい領主が赴任してない状態では、尚更だ。そんな状態でお前を解き放てば、すぐさま拉致されるだろう。下手すれば、その日のうちに身籠もるだろうな」
「っ――」
「まあ、既に身籠もっていなければ、の話だが」
王の言葉に紅藍の顔から血の気が引く。
「み、身ごも」
「ああ、他にもあるぞ。お前が身籠もっていた場合は、その前領主の遺児を領主の地位につけ、自らは後見神となって領地を支配しようと考える者達も。その線で動いている者達も既に居ると聞く」
「わ、私は身籠もってなんか!!」
そう叫ぶが、すぐにそれが無駄だと思い知る。
たとえ名ばかりの妻とはいえ、その結婚が全くの白い結婚であると信じる者は少ないだろう。
「それは、あと数ヶ月もすれば分かる事だろう。その真偽が判明するまで、紅藍にはこの王宮に留まって貰う」
言葉を失い、今にも頽れそうになる体を必死に叱咤する。
「それで――」
「も、もし」
「ん?」
「もし、私が身籠もっていたとしたら、どうするのですか?」
それはあり得ないが、もし万が一身籠もっていた場合、王はその子をどうするのか。
「とりあえず遺児として利用される前に、新しい夫を得て貰う」
「っ?!」
「そして、遺児をその夫の子と正式に認知する事で、利用価値を消す」
利用価値を消す。
でも、命までは取られないと知り、紅藍はホッと息を吐いた。
「やはり身籠もっているのか?」
「い、いいえ! そんなっ」
「そうか……淑妃の狂気もこれで少しは落ち着くか」
「え?」
「いや、何でもない。それで、そういったお前を利用しようとする者達への対処が整うまで、先程も言ったとおり、お前にはこの王宮に留まってもらう。期間は未定だ」
「は、はぁ……」
色々と納得出来ない事は多々あったが、たぶん王の言うとおりにするのが一番良いのだろう。
それに、もし自分が襲われて、周囲に迷惑がかかったら困る。
「宰相、紅藍を案内してやれ」
「御意」
王に命じられた宰相が、紅藍を立たせる。
そうして部屋を出ようとした紅藍はその言葉を聞いた。
「まあ、お前にとって一番安全なのは寧ろ外だろうが、な」
ん?と振り返ろうとするも、宰相に促されて部屋を出た紅藍は、その時王を問い詰めなかった事を激しく後悔する事になる。
また、王宮に留まるといっても、どこに連れて行かれるかを聞かなかった事も。
「さあ、ここですよ」
「……は?」
「何鳩が豆鉄砲を喰らった様な顔をしているんだ。美神が台無しだ」
「いや、ここって」
宰相に連れられてやってきた場所。
そこ、は。
「この王宮で一番警備が厳重なのはここですから」
そう言って、ぽんっと中に放り込まれた紅藍の前で無情にも門は閉まった。
そんな殆ど物の様に放り投げられた紅藍は、当然だが受け身をとる事も出来ずに地面に転がる筈だった。
だが、その前に受け止められた。
「紅藍姫、お久しぶりですねっ」
こ、の声は。
「王妃! それ離してっ」
「ってか、部屋から出ては駄目とあれだけ」
「王妃、様?」
新たに聞き覚えのある声は、確か徳妃と賢妃。
けれど今自分を支えているのは、王妃――紅玉。
平凡な見た目だが、優しさに溢れた瞳が懐かしい。
けれどその顔はどこか、いや、完全に焦っていた。
「紅藍は私のだからねっ! 私のっ! 私の侍女なんだから――」
ぐいっと、腕を引っ張られる。
「逃げるよ紅藍っ!」
「へ、きゃっ!」
そのまま引き摺られるようにして走り出された私は、後にそれが地獄に後一歩だった事を知る。
だが、今はそれよりもーー。
「こう、きゅう」
今から数十年前ーー嫁ぐ、直前まで自分は居た。
この、後宮に。
そして、この後宮のすぐ外で出会って以来、自分は淑妃に勝負を挑み続けた。
それは奇跡のような時間であり、そしてーー辛く狂おしい時間でもあった。
気づかなければ、紅藍はこれほど苦しむ事はなかった。
思い出される過去の記憶が奔流となって、紅藍を絡み取っていった。
「……ようやく、来たか」
寸での所で王妃様に奪われた獲物。
高い高い塔の上から見下ろしながら、藍銅はくすりと笑う。
一瞬だけ、彼女がこちらを見た時に感じた鼓動。
けれど、すぐに視線はそらされた。
いや、彼女は自分と視線があった事にすら気づいて居ないだろう。
あの日からーー彼女が自らの意思で去っていった日に、思い知らされた。
そしてその後に続く、残酷すぎる現実に、藍銅は笑うしか無かった。
「数十年ぶりかーー」
もう、正確な年数を数える気すら起きない。
地獄のような時間。
ロクデモナイ神生だったが、中でもあの日から今まで続いた時間が一番藍銅にとっては腹立たしいものとなった。
だが、それももうすぐ終わる。
始まりの場所が、終わりの場所となる。
『淑妃! 勝負よっ!』
そんな言葉と共に、突如藍銅の前に現れた少女。
我が儘で高慢な貴族のバカ娘。
最初は、確かにそれしかなかったのに。
「恨むなら、自分を恨めば良い」
まるで嵐の様に現れ、雷光の様な眼差しで藍銅を虜にした。
そんな彼女との時間は、確かに藍銅にとっては唐突に始まりーーけれど、確かに幸せを感じていた。
何よりも、何よりも、幸せだった。
そうして藍銅もまた、驚愕と優しさに溢れた過去に身を委ねたのだった。