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紅の嵐姫 藍の淑妃  作者: 大雪
始まり編
2/35

第一話 あの日の間違い 前編

 百年に一度、この国で行われる大祭――海国祭。

 全ての海に恵みを届ける為の祭は、一週間という長い期間に渡って行われる。


 それはこの国にとって最大かつ最高たる祭の一つとして数えられる大祭だった。

 というのも、そもそもこの国は、世界を問わず存在する全ての『海』を司る神々の国であるのだから。


 神々が住まう世界ーー天界十三世界。

 十三の世界からなるその世界の一つに、炎水界と呼ばれる世界がある。

 そこは名の通り、水を司る国と炎を司る国で占められており、我が国は水を司る国として名を馳せていた。


 その名も、『海国』。

 水の序列第六位に位置し、水の列強五カ国のすぐ下に位置する大国だった。

 全ての海を司る『海国』の役目は、海に関する全ての事と言われ、また海に関する他の国々の統括も含まれていた。

 ゆえに、今回の祭には海に関する他の水の国々からも多くの者達が出席する大切な祭。


 当然ながら、海国でも全ての貴族達が出席する事が義務づけられ、当主だけではなく正式な伴侶も王宮に伺候する事になっていた。


 ここに一神の少女が居た。

 豪奢な馬車の中で、ぼんやりと外を眺めている彼女もまた、今日王宮の伺候を命じられた一神だった。

 名を紅藍と言い、今年十七になる。

 そんな彼女は、海国の北部の一領主を夫に持つ領主夫神として、数十年ぶりに海国王宮に上がろうとしていた。


 そうして窓からも、遠くに見える建物にほうっと溜め息を吐く。


 変わらぬ広大な王宮。

 荘厳で緻密かつ美麗な装飾が至る所に施された宮殿は、華美ではないが、一目見てこの国の国力を知らしめる。


 炎水界一の大国と謳われる凪国や、それに次ぐ津国には到底及ばないものの、それでも海国は水の列強十カ国に入る大国である。

 紅藍は馬車の中から、王宮の入り口の大門を見上げた。


 長い行列が連なり、一台ずつ門番の兵士達に通されていく。


 その光景に、ふと昔のことを思い出す。

 結婚する前も変わらない光景。

 けれど、あの時は馬車になんか乗らず――いや、最初こそは乗っていたが、そのうちそれすらもめんどくさくなり、自らの足で駆けていった。


 毎日、毎日。

 雨が降ろうとも、雪が降ろうとも、台風が来ようとも。

 一日も欠かさず通い詰め、そして――。


『勝負よ! 淑妃っ!』


 その度に呆れ果てた淑妃――彼だが、それでもどこか諦めた様に溜め息をつきながら応じてくれた。


 そんな彼との最後は、紅藍の暴走が引き起こした最悪な結末で、それ以来一度も会っていない。

 その翌日、紅藍は今の夫に嫁いだからだ。

 その夫は今、苛々とした様子で向かいに座っていた。


「全く、なんだってこの私が」


 ぶつぶつと騒ぎ立てる彼は、不満、不機嫌を欠片も隠さない。

 しかも、紅藍の事を全く視界に入れようともしない。


 けれどそれも当然だ。

 夫の紅藍に対する関心は皆無なのだから。


 彼の心は、美しい妾にある。

 海国の有力貴族である夫は、四十にさしかかった今も精力的で好色と名高い。

 正妻の他に妾を数多囲い、彼女達との間に子供まで居る。

 しかも、紅藍の前に四神ほど正妻が居たが、彼女達は皆、先立ったり、他の男と逃げたり、離婚したり――。


 だが、彼としては美しい妾達が居ればなんら問題は無いのだろう。

 ならばどうして、自分を後妻にしたのだろうと問いたい。

 けれど、問わなくても紅藍は知っている。


 ある目的の為に更なる権力を欲した紅藍の父親が、新しい後妻を探していた今の夫の元に娘を売り飛ばしたのだ。

 妾は愛しいが、正妻にするには家柄が悪い。

 だから、妾達の事でとやかく言わないが、そこそこに家柄の良い娘を望んでいたところに、丁度良い話が舞い込んできた夫としては一も二もなく受け入れた。


 後妻に望むのは、ただ名ばかりの妻として生きる事。

 夫の愛も求めず、修道女の様に全ての外界から遠ざかるようにして生きる。

 我が儘を言わず、夫を煩わせず、妾達を敬い仕える様な妻――それが、当時十六歳だった紅藍に求められた妻としての仕事。


 それには、紅藍の存在は最適だった。

 高ビーで高慢で、我が儘な貴族の馬鹿娘。

 他の美しい姉達とは違い、頭までお花畑の娘にはお似合いの末路。


 結婚後、夫は王都の別宅に残って妾達と楽しみ、紅藍は一神夫の治める領地の屋敷へと送られた。

 時折夫は来たが、それは領地の視察であって、紅藍の事には何の関心も払わなかった。

 

 それが数十年経って、この大祭でようやく紅藍はこの王都へと戻ってきた。

 夫の正式な伴侶として。


 けれど、夫からすれば甚だ不本意でしかないのは一目瞭然だった。

 夫は厚顔無恥にも「お前ではなく私の愛しい女達を伴いたかったのだ!」と喚き散らし、政略結婚で娶った若妻を罵った。

 しかし、正式な伴侶は正妻である紅藍を。

 特に結婚以来一度も紅藍が顔を見せなかった事もあり、大祭は良い機会として夫は王直々に伺候を命じられたらしい。


 だからこそ、夫は自分を連れてくるしかなかった。


 王の命令には逆らえない。

 しかし理解しても納得は出来ず、こうしてずっと紅藍の目の前で不機嫌さを隠そうともせずに喚きつづける。

 時には、睨み、頭を叩き、頬を張り、足蹴にする。


「なんだその目は! お前の様な雌豚、この私が拾ってやらなければ一生嫁かず後家、末は醜く朽ち果てたものをっ」


 また、殴られた。

 けれど、馬車が丁度門をくぐる順番だったのだろう。

 不審に思った門番が外から声をかけてきた。


「どうされた?」

「っ! な、なんでもないっ」


 夫が鋭く叫び、急いで誤魔化している。

 それを滑稽に思いながら、紅藍は張られた頬に手を当てた。


 ああ、また腫れるな――。


 夫から与えられるのは、無関心、嫌悪、不満、そして暴力。


 けれど、これが自分にはお似合いの現実だろう。


 ヒロインではなく、ヒロインを苛める悪女だった自分には。

 再び動き出す馬車に揺られながら、紅藍は静かに眼瞼を閉じた。





「おお、これは南の――」


 広い大広間に集まった貴族達。

 煌びやかで夢のように華やかな光景だが、薄皮の裏で繰り広げられるのは権謀術数の数々。

 にこやかに微笑みながら、裏ではいかにして他者を追い落とすか、誰か手を組んだ方が有利か、誰に娘を嫁がせ、誰の娘を妻にすれば権力を握れるかを計算する。


 夫に叩かれた頬を隠すために強制されたヴェールの下から、紅藍は繰り広げられる偽りの談笑を淡々と眺めていた。


 昔は紅藍の父もここで娘達を売り込んだ事だろう。

 そんな父は今も精力的に自分の神脈作りに勤しんでおり、久しぶりに会う娘を早々に追い払った。

 側に居た母も娘には無関心で、新しい愛神探しに熱中している。

 姉達の姿も見えたが、彼女達は元々不器量な妹には無関心だ。

 それどころか、一緒に居ると自分まで下に見られると言わんばかりに近寄られる事を拒否した。


 また夫も、他の貴族達との神脈作りに忙しく、更には自分に美しい娘を薦めてくる貴族達との話に花が咲き、自分が渋々連れてきた厄介者の事など欠片も頭には残っていないだろう。


 ここまで無視されれば、逆に周囲の注目をひく。

 しかも夫の女漁りは王都でも有名で、その正妻が領地に追い払われた事も意外に知られており、この大広間に入ってからずっと嘲笑と陰口が紅藍に浴びせられていた。


 だが、それも仕方の無い事だ。

 そもそも、神の不幸は蜜の味。

 特に噂話が大好きな貴族達にとっては、この手の話は大好物である。


「見て、あの娘」

「ふふ、あの落ちぶれよう! いい気味だわ」

「ってかあの娘でしょう? 数十年前に身の程知らずにも王宮に通い詰め、淑妃様に嫌がらせをし続けたのは」


 結婚前の事にまで話が及んでいる。

 けれど、紅藍が数十年前にこの王宮に通い詰めて淑妃に勝負を挑み続けた事は当時かなり有名だったから、知らない者達の方が少ないだろう。

 たとえ忘れていたとしても、すぐに思い出せる筈だ。


 人間ならば数十年は長い時だが、神にとってはほんの僅かな時間でしかない。


 けれど、紅藍にとってこの王宮に再び足を踏み入れるまでの時は――本当に、長か


「あら、ごめんなさい」


 突如頭から浴びせられた赤い水。

 それがお酒だと知ったのは、鼻をつく酒の匂いによる。


 ポタポタと赤い水滴が髪から滴り落ち、衣装を濡らしていく。

 クスクスと笑う嘲笑が大きくなる。

 恥ずかしさといたたまれなさに踵を返した時、後ろで銅鑼が鳴った。


「陛下のおなりでございます」


 その言葉に一度は足を止めたが、再び聞こえてきた幾つもの嘲笑に、紅藍は神の波をを縫うようにして大広間を後にした。


 

 走って、走って、走って。

 息が上がり喉が痛み、足がもつれて。

 それでも走り続けてようやく走れなくなった時、紅藍は見覚えのある場所に居た。

 そこは、王宮の奥深くにある中庭。

 それも、後宮に隣接する場所で、そう簡単には入り込む事が出来ない場所。


 というのも、海国王宮で最も警備の厳しい後宮のすぐ隣にあるのだから。

 けれど、結婚前は良く来ていた場所。

 等間隔に置かれた照明の光が、中庭を美しく照らす。

 中でも、紅藍の目の前に聳え立つ一本の大樹が明かりに照らされ幻想的に輝く。


「まだ、あったのね」


 緑生い茂り、悠々と枝を伸ばすその樹に今は遠い過去がよぎる。

 樹に近づき、下から上を見上げる。

 暗くてよく見えないが、それでもあの枝の部分にその巣はあった。

 もう、ずっとずっと昔の事。


「ふふ、もしかして、呼ばれていたのかな」


 本来なら警備の厳しい場所。

 後宮の隣に隣接する庭。

 後宮から普通には行き来できないが、実は隠し通路があってそこから出入り出来る。

 それを通り、この場所に来ていた。


 淑妃と共に。

 いや、勝負に負けた紅藍がここで憂さ晴らしをし、心配した淑妃が後宮から抜け出して迎えに来てくれた。


『ほら、帰るぞ』


 本来後宮から出られない身でありながら、彼はいつも紅藍を連れに来てくれた。

 そうして帰った後は、彼手ずから入れてくれたお茶を飲みながらお菓子を食べる。

 いつの間にか、王妃やその侍女、そして他の四妃まで集まり、最後はわいわいやっていた。


 いつの間にか。

 いつの間にか、そうなっていった。


『あんたになんて負けないんだからっ!』

『そう言って毎度毎度ぼろ負けしてるのはどこのどいつだよ』


 そういえば、お茶会でも喧嘩していたっけ。

 いや、あれは喧嘩ではなく、紅藍が勝手に怒って、淑妃が溜め息をつきながらあしらっていた。


 今思えば、淑妃は本当に面倒見が良かっただろう。

 こんな我が儘な小娘に呆れつつも勝負に付き合ってくれた。


 確かに、彼らは淑妃に恋して自分を捨てた。

 けれど淑妃には落ち度は全くない。

 なのに勝手に自分は淑妃を逆恨みして、勝負を挑んで、負けても毎日勝負を挑み続けた。

 しかし、淑妃にはその勝負を受ける義務はなかった。

 受けずに陛下に話して自分を立ち入り禁止にする事だって出来たのだ。

 いや、実際にはそうするべきだっただろう。


 限られた者しか入ることの赦されない後宮に殴り込む、危険分子など処分されて当然。

 けれど紅藍は一度も立ち入り禁止になる事はなかった。


「本当に、最悪だったよね、私」


 そういえば、一番最初に淑妃に出会ったのも、やはりここ。

 王妃について他の四妃と共にこの庭に居た所を自分が急襲した。

 けれどそう何度も何度もここにいるわけではなくて、次の日は後宮の前で大騒ぎをした。


 そこで始まった押し問答。

 入れろ、帰れ、入れろ、帰れと門番と言い合い、その騒ぎにやってきた淑妃に溜め息をついて中に引きずり込まれた。


 そう――あれから、後宮に通い続けた。


 でも、それももうとっくの昔に終わってしまった。

 もう、今の自分には後宮に立ち入る資格なんてない。

 いや、昔からそんな資格はない。


 それに、たとえもしその資格があろうとも、紅藍は入る気はなかった。


「危険な目に遭わせられないものね」


 自分の夫が、淑妃に懸想しその身を狙っている事を知ってしまった今、自分は二度と後宮に立ち入る気はなかった。

 それで、死ぬほど殴られた過去があろうとも。


 夫は、紅藍が後宮に入り浸っていた事も知っていて、妻にした。

 妻が後宮に遊びに行くことで、淑妃を外に誘い出して我が物にする為に。

 たとえ王の妻だろうと、一度自分のものにしてしまえば何とでもなる。

 自分の屋敷に囲い、正妻として生涯閉じ込め続けるのだと笑った夫に自分は嘆息した。

 その結果は言うまでも無い。


 今もそれを命じてくる事は、実は多々あるけれど、自分は応じる気はない。

 それでいつか殺される日が来るかもしれないが、それをして淑妃から更に遠のく夫を思えば愉快にすら思えてくる。


 ふふ、と笑いながら樹の幹にしがみつく。

 耳をあてると、不思議な音がした。

 淑妃は生命の音だと言っていた。


 サァァァと水の音が聞こえる。

 この樹の中にも水は流れているのだろうか――。


 パキン――。


「っ?!」


 枝を踏む音に慌てて体を樹から離して振り向く。

 中庭には幾つもの照明があるが、それでもやはり暗がりはある。

 その闇の部分から聞こえてきた音は、一歩ずつこちらに近づいていた。

 足音――それに気づいた時、それは暗がりから姿を現した。


 驚きに、紅藍の舌が動かなくなる。

 しかし、相手の方は違った。


「久しぶりだな――」


 夜の闇すらもその美貌を際立たせるものに成り下がる。

 仙姿玉質、沈魚落雁、一顧傾城。

 数多ある美女を形容する言葉はあれど、そのどれもが彼の美を形容するには足りなさすぎる。

 理知的な瞳が美しい、清楚で優雅な美貌と滴る色香。

 しかし口を開けば、意外と粗野で乱暴な口調。

 そんなギャップすらも、彼の魅力を深めるものでしかない。


 そんな彼は、百神の美貌の男妃達が艶やかに咲き誇る、この海国後宮に君臨する四妃の一神――淑妃の位を戴く存在だった。


 領主の正妻とはいえ、王の妃である彼の足下には到底及ばず、本来であれば平伏するのが礼儀であるにも関わらず、紅藍は凍り付いたようにその場に立ち尽くした。


 数十年前、あの最悪の夜を最後に会うことの無かった彼がすぐ側に居る――。

 その事実が、全てを紅藍の中から吹き飛ばしてしまった。


 どうして彼がここに居る?

 後宮から出て平気なのか?

 ここに居る事を怒られないだろうか?

 私の事を覚えている?


 疑問は数あったが、紅藍の口からそれらが絞り出される事はなかった。


 先程まで向けられていた麗しい微笑が、一瞬にして凍える冷笑に変わった事で、彼の怒りを悟ったからだ。

 しかし、その笑みは一瞬の事ですぐに元の美麗な笑みに戻る。


「久しぶりだな、紅藍」

「しゅ、淑妃様」

「様? 昔は呼び捨てだったのに――ああ、お前も成長したって事か」


 成長――確かに、昔は今以上の我が儘娘で礼儀も何も知らない子供だったが、改めて指摘されると腹が立つ。

 こう、昔の様にむくむくと反抗心が沸き立ってくる。

 しかし、昔と今は違う。

 何とか自分を律し、紅藍は頭を下げた。


「お久しぶりです、淑妃様。ですが、何故この様な場所にお一神でいらっしゃるのですか?」

「ん? 夜の散歩だ」

「さ、散歩って」


 本来、側妃といえど、王の正式な妃である後宮の男妃達は、大祭に出席する資格を有する。

 だが、男妃達を狙う欲深な狐狸達が常に虎視眈々と触手を伸ばしている為、公式行事であろうと滅多に男妃達が後宮の外に出る事はなかった。

 当然、今回の大祭にも出ない。

 だから、淑妃もここに居る筈が無いのに、彼は平然とそこに立っている。


「それより、久しぶりの再会なんだ。もう少し嬉しそうにしろよ。それとも、夫以外の男と話すのは躊躇われるか?」

「え?」

「まあ、男といっても、俺は男妃。公式な立場は王の妃だからなぁ」


 そこに含まれるものに、紅藍は眉を顰める。

 男でありながら、男妃として周囲からは『女』として認識される。

 しかも身に纏う衣装は全て女物で、その性別を超越した美貌もあって完全に美姫にしか見えない。


 そもそも後宮とは、本来は女性で構成されるべき『女の園』。

 けれど海国後宮では正妃を除き、全て男の妃達で占められている事は、炎水界でも有名な話だった。

 男妃ばかりとなった理由は紅藍も良くは知らないが、簡単に考えれば王が男色家というのが一番の理由だろう。

 だが、それでは正妃が女であるのが謎だが、それは世継ぎの事を考えた周囲の働きによるものだろう。

 いくら美しくとも、男の娘では子供は産めない。


 そんな他国には中々無いタイプの後宮だが、実を言うと、種類は違えど誰もが絶世の美貌を持つ男の娘ばかりで、装う衣装も女性物である事から、見た目だけは他の後宮となんら変わりない『女の園』を形成していたりする。


 中でも、後宮を統括する、正妃に次ぐ四神の妃――四妃たる貴妃、淑妃、徳妃、賢妃の美貌は一際際立って美しく、周辺国に広く知れ渡っていた。


 その美貌がすぐ目の前にある事に気づき、紅藍は慌てて後ろに下がった。

 けれど、大樹を背にしていた事もあり、木の根にひっかかった足がバランスを崩し、体が大きく傾いた。


「あ――」


 倒れそうになった紅藍の手が、淑妃によって掴まれる。

 そのまま力強く引っ張られ、体のバランスが戻った。


「何してるんだ」


 呆れた様な視線を向けられ縮こまる。

 昔だったら、ここで怒鳴り声の一つでもあげていた筈なのに。


「も、申し訳ありません」

「……本当に、変わったな。いや、あれが変えたのか」


 最後は小さくて良く聞こえない。


「まあ、いい。それより、今頃は陛下のお言葉を聞いている筈の紅藍がどうしてここに居る?」

「そ、それは」


 そこで紅藍は今の自分の姿を思い出した。

 慌てて距離を取ろうとする自分に、淑妃も気づいたのだろう。


「女どもは恐いな。ああ知っているか? 紅藍に酒をひっかけた女の一神は、お前の夫の愛神だ」

「え?」

「はは、噂は本当だったみたいだな。夫に全く相手にされない、可哀想なお人形」


 何を――と言う前に、背後の樹に体を押し付けられた。


「痛っ」

「今もきっと気づいて居ないだろうな? 紅藍が居なくなった事なんて」

「しゅ、淑妃様?」

「とんだ誤算だったな? けど、夫なんて三日に一度帰ってくれば良い方だと言うし、紅藍には願ったり叶ったりの生活か」

「淑妃、様」


 一体彼は何を言って――。

 その時、そっと白魚の様な繊手が裾を割って入ってきた。


「しゅ、しゅく」

「夫の居ぬ間に男をとっかえひっかえするアバズレなら、分かるだろう?」


 耳を舐められ、囁かれた言葉に紅藍は愕然とした。


 今、何を。


「前に流した分もあるし、最近溜まってるからな。楽しませてくれよ」

「――っ」


 裾を割った繊手が、更に奥に入り込もうとした。


「嫌っ!」


 淑妃を突き飛ばし、走り出す。

 けれど、手首を掴まれ引き摺り戻された。


「離して!」

「何が嫌なんだよ。こんな事、貴族にとっては嗜みの一つだろう?」


 淑妃が耳元に息を吹きかけながら甘く囁く。


「あ、あなたは陛下の妃なんですよっ!」

「それがどうした?」

「それがって――やぁっ」


 胸元に入り込もうとする繊手を必死に掴んで払いのけようとする。


「こんな事、やめてっ」


 一体何が起きているのだろう。

 淑妃と思いがけない再会を果たして、それからそんなに時を置かずしてこの状況。

 自分が淑妃に襲われているなんて。


 いや、これは淑妃の悪い冗談だ。

 混乱する頭で必死に現状を打破する方法を考えた。


「夫と妻が公然とそれぞれ相手探しをするなんてザラだ。だから、な?」


 誘うように艶めいた声が耳をくすぐる。

 その間にも、白い手が服の中に入り、巧みに動かされていく。

 その動きに、思わずぎゅっと目を閉じた。


 手が動く度に、体から力が抜けていく。

 このまま、全てを任せてしまいたいという願いが頭をもたげてくる。


 はしたない、女。


 けれど、言い訳をさせて貰えれば恋心を抱いている相手にこんな事をされれば、誰だって全てを放り出して身を任せたくなるだろう。


 そう――自分は、紅藍は淑妃を男として愛していた。


 最初は婚約者に破棄される原因を作った憎い相手でしかなかったのに。

 それでも、勝負を挑みながら自然と深まっていく交流の中で淑妃の神となりを知るうちに、いつの間にか憎しみが恋に変わっていった。


 しかし所詮は結ばれる相手ではない。

 彼は王の妃。

 一介の貴族の娘が手を出せる相手ではなかった。


 なのに、父から結婚を告げられた後、自分は悩んだ末に淑妃の元に走った。

 そして、彼に懇願したのだ。

 一夜だけで良いから――と。


 けれど淑妃はそれに何の反応も見せず、紅藍は敗れた恋を抱えて戻るしかなかった。

 そうして、今の夫の元に嫁いだ。


 だが、今はそれで良かったと思う。

 それにあの時もし同情からでも一夜を共に出来ていても、結局最後には今の夫に嫁いでいただろうから。


 父に逆らう事も出来ず、逆らった所で結婚させられる。

 それに逆らえば、きっと多くの者達に迷惑をかけただろうとして、諦めた。


 そしてその後は、更に諦めばかりの生活だった。


 そんな紅藍の前に、まるで馬の前にぶらさげられた人参の様に淑妃から与えられるもの。

 その昔、夢見て夢見て、でも結局は夢で終わってしまったもの。


 思わず、身を任せたくなる。


 しかし、そんな自分に次の瞬間冷水を浴びせたのも、淑妃の言葉だった。


「貴族にとっては、不倫も、一夜限りの遊びも文化だろ?」

「な――」


 遊、び?


「遊び相手としては、俺は最高の相手だと思うぞ?」

「……」

「これでも奉仕は上手い方だからな。満足――」


 淑妃の手を振り払い、紅藍は転がる様に地面に倒れ込んだ。


「なっ」

「触らないでっ」


 叫びながら、心の中で泣いた。

 遊び、遊び――ああ、そうか。

 彼は遊びとして、紅藍をその相手に選んだだけなのだ。


 男妃として王の側に侍り、慰めるのが淑妃の仕事。

 けれど、いくら妃とはいえ男としての本能が女性を求めるのだろう。

 だが、王の妃である限り、特定の女性と深い仲になるのはまずいし、それこそ本気になったら大事である。

 それは淑妃だけでなく、相手側もだ。


 だからこそ、遊びと割り切れる相手が必要なのだ。

 その相手として、紅藍が選ばれた。


 そう、遊び程度であれば相手をしてもいい――それぐらいの相手として。


 それでも光栄だと思えればどんなに最高だろうか。

 しかし、自分の心からは血が噴き出し、痛みに悲鳴をあげた。


「紅藍」

「来ないでっ」


 懐から取り出したのは、一本の懐剣。

 それを自分の首に当てる。


「っ――」

「近づいたら、刺すから」


 息を呑む淑妃に、紅藍はじりじりと距離を取る。


「私は、私の夫はただ一神です」


 愛してもいない夫。

 でも、今この時だけは利用させてもらう。


「この身も心も彼にだけ捧げているの。だから求めには応じられ、ない」


 例え、相手が王の妃という、自分から見れば至高の存在だろうと。


 例え、自分にとって初恋の相手だろうと。


 これ以上惨めになりたくないから――。


 彼の欲望を満たしてあげる事よりも、自分のプライドを取った哀れで冷たい女。

 それが、自分なのだ。


 そうして、紅藍は淑妃の前から逃げ出した。


 もう二度と会うことは無いだろう――それだけを願いながら。

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