第十五話 食堂
「だあぁぁぁあ、もうっ!」
紅藍は叫んだ。
そこが喧噪極まる昼間の王都の大通りであるにも関わらず、思いの丈を発散する様に苛立ちを解放する。
が、突如叫び出した相手に、当然ながら周囲は波が引くように距離を置いた。
「一体何なのよ! 何なのよっ! 何なのよおぉぉぉっ!」
せっかく神が苦心して選んだお守りを地面に投げ捨てた、あの鬼畜。
「あんの我が儘娘がぁぁあああっ」
娘でなく、男ーーそんなツッコミをしてくれる者は此処にはーー。
「見~つけた」
「へ? きゃっ!」
後ろからガバリと何かが覆いかぶさり、紅藍は驚きに全身を震わせた。
心臓がすくみ上がったーーと言っても良いだろう。
「な、なななな、なーー」
一体何がーー。
後ろを振り向こうにも、ピタリと張り付かれたそれを確認する事は出来ず、突然の事態にパニックが全身を支配する。
「ひ、ひーー」
「紅藍様、お気を確かに」
「っ?!」
この、声は。
「紅玉様ーー」
「ご、ごめんっ! まさかそこまで驚くとはーー」
紅玉ーー。
それは、この国の王妃の名。
「お、おう」
その名を言おうとし、口を塞がれた。
四本の腕で。
「ごめんね~、遅れちゃって! ね、お昼ご飯食べに行きましょう!」
「そうですね、この先に美味しい料理屋がありますから」
二神に引き摺られるようにして、紅藍は大通りを引き摺られていった。
そうして辿り着いたのは、大きな三階立ての大衆食堂。
この王都ではかなりの有名店で、客層もピンキリだとかーー。
まあ、流石に高貴な身分の方達はあまり居ないのが実情らしいが。
ガラス戸を開けた瞬間、むわっとした熱気が飛び込んでくる。
「へい、いらっしゃーー」
言葉が途切れたのも一瞬。
すぐに凍り付いた笑顔を溶かし、とびっきりの笑みを浮かべた食堂の店主が紅藍達を招き入れた。
「一階は混んでいるから、二階にあがっとくれ!」
そう言うと、確かに混み合ってる一階を通り抜けて二階ーーを更に通り抜け、三階へと誘導された。
「ここ、三階じゃ」
「ええ、そうよ」
「いわゆる特別室だ」
そう言った店主が最奥の部屋へと紅藍達を入れた途端、スッと跪いた。
年の頃は三十代前半。
夏の日差しに焼けた様な褐色の肌と筋肉が逞しく、額に十字の切り傷を持ったサングラス店主は姿こそ下町の男というそれだが、その所作は正しく高位貴族に匹敵するほど洗練されたものだった。
そっと、静かにサングラスを外す。
その下から現れた美貌は、後宮の華たる男妃達を見慣れた紅藍でさえ息を呑んだ。
野趣溢れた野性的な美貌は凛々しく精悍であり、鍛えられた肢体は野生の黒豹を思わせるしなやかさを持っていた。
「……もしかして」
「色々と言いたい事はありますが、お久しぶりです王妃様」
やっぱり王宮関係者かぁぁぁあ!
「あ、紹介するね、紅藍姫。この神は、大将軍直属の側近『左』をされている方なの」
「『左』?!」
大将軍には、直属の二神の側近が居る。
それはそれぞれ『右』と『左』と呼ばれ、直接将軍達を統括する、すなわち表の軍を指揮するのが『右』で、『左』は潜入捜査系を担当する者達を主に統括していた。
ただし、王の影集団は除くが。
因みに、『右』と『左』は双子の兄弟で就任しているが、性別を超越した女神と名高い『右』と、野性的な男性美溢れる美男子と名高い『左』は全く正反対の容姿をしており、二人並べば確実にお似合いのカップルと言われーー。
「そういえば、奥さん帰ってきた?」
「……」
迂闊な一言を言った紅玉に、『左』たる男が両手で顔を覆った。
どうやら、抉ってはならない部分を抉ったらしい。
「あ、その、弟さんの『右』の奥さんも帰ってきてないって聞いてて」
お似合いのカップル。
産まれた時からの運命の恋神ーーと謳われる美双子。
いくら双子と言おうと、兄弟と言おうと、周囲はそんな事は気にせず、もはや運命の恋という認識。
もちろん、上層部や男妃達の中にはそんな馬鹿な事を考える者は居ないがーー。
どこにでもロマンス好きというものがおり、好き勝手に話を作りあげていく。
そしてそれで誰が一番被害を喰らうかというと、もちろん双子もだがそれ以上に彼らの伴侶達だった。
伴侶達は邪魔者として、二神の仲を裂くお邪魔虫として罵倒され嫌がらせを受けてーー。
『実家に帰らせて下さい』
『巫女になります』
旦那を捨てて出家しようとする事数知れず。
今回も、疲れ果てた双子の奥方達は共に手を取り合って、王都近隣の山の上にある神殿に逃げてしまったという。
しかも、女性しか入れない特別な神殿である事から、そこに奥方が居るというのに手を出せない『右』と『左』は、荒れた。
特に、弟の『右』の荒れっぷりは酷かったという。
だが、そんな彼の愛は、男顔の奥方にはこれっぽっちも伝わらない。
「それで、『左』はここで王都に入る情報を統括、処理しているの」
そうーーこの食堂は、王都における王宮の『耳』。
食堂という場所は意外にも色々な話が入りやすい。
しかも、夜は酒場にもなるとなれば、その情報量は膨大なものとなる。
また、この場所には各地方に放たれた『耳』達も集まり、情報交換の場としても利用されていた。
『左』がその店主としてここに赴任する事は、ある意味当然の事と言える。
しかしーー。
「それ、私に話しても」
いい情報なのか?
と、いくらお馬鹿な紅藍でも疑問を抱いた。
普通潜入系の仕事では、その正体がばれたらまずいーーと、淑妃が言っていた気がする。
「紅藍姫だから大丈夫よ」
「はい?」
ここに紅藍を越える逸材が居た?!
「だって、紅藍姫はそういうのを無闇やたらに言わないもの」
「え、えっと」
「でしょうねぇ」
ニヤニヤと『左』たる男が笑う。
「王妃様の神を見る目は確かですから」
そう言いながら、『左』は思い出した。
王がまだ真実を暴露する前から、この王妃様は無意識に王との距離をとっていた。
それは体が王に対して防衛反応を全開にしていたからである。
そこはもうちょっと迂闊でもいいのにーーと思ったのは内緒だ。
「で、でも、王妃様ーー」
「陛下から言われたの。『時々ならお忍びは赦そう。しかし、できる限り使う店は王宮の者が潜入している店を使う事。そして、必ずどこにいったか分かるように、顔を出せ』って」
もし万が一何かあっても、先々の店に顔を出すことである程度の場所を把握出来ると言われたと王妃様は告げる。
もちろん影は付けられているが、それでも幾つもの防衛戦を張ることによって、より安全度は増すという。
確かにその通りだ。
「だから、今度からはここでご飯にしようって楓々と約束したのよね」
「その通りです」
「それに、ご飯の時って気が緩みやすいでしょ? けど、ここだと色々と王宮の事とか話をしても大丈夫だし」
王妃様の言葉に、紅藍はハッとした。
確かに、誰がどこで聞いているか分からない状況では、迂闊な事は言えない。
紅藍もお忍び中に何度楓々に言葉を止められたか分からない。
「それだとストレスたまるでしょ? だから、言いたい事を言える場所も必要かなって」
普通の女の子のようにーーというには、いささか紅玉は年を取りすぎてしまっているけれど、それでも紅藍や楓々とのお忍びは楽しかった。
そして楽しければ楽しいほどーー。
『果竪様ーー』
自分はまだ恵まれている。
けれど、紅玉が仕えていた凪国王妃はーー。
後宮から出られず、あの頑強な『華の檻』の中で生きる事を強いられた后。
王や上層部の妄執的な愛に囲われる日々はどんなに息苦しいものか。
紅玉なら、果たして耐えられるだろうか……。
「王妃様?」
「っ! な、なんでもないっ」
心配げにこちらを見る紅藍に、紅玉は慌てて手を振った。
「それより、何か食べましょう! 紅藍姫は何が食べたい?」
「え、えっとーー」
何がと言われても、すぐには決められない。
それにメニューによるだろう。
一応貴族の娘だから、食べるものと言えば高級料理が多かった紅藍。
しかし、お忍びをする中で下町の食べ物も多く食べて居る事、また後宮では質素な食事をしている事から、今では何でも食べられるようになってきた。
だから、大丈夫と言えば大丈夫だがーー。
以前、それで油断して泣いた事がある。
それは、王妃様が屋台で売っていた蛙の丸焼きをばくばくと食べた時の事だ。
蛙ーーそれこそゲテモノに入るそれを王妃様が食べて居る姿に紅藍は目眩を覚え、勧められた時には思わず泣いてしまった。
無理です、食べられません、ごめんなさい。
紅藍は初めて心から謝罪した、それも土下座で。
それ以来、そういったものを勧められることはないが、それでも油断は出来なかった。
「メニュー表ってあります?」
「あるよ~」
そう言って『左』が渡すメニュー表を見ながら、王妃様が次々と注文していく。
そうして三十分後、現れた料理はと言うとーー。
固い黒パンに、切り分けてくださいと言わんばかりのチーズの塊。
そして、野菜沢山のサラダに、申し訳程度の肉と魚だった。
「……王妃様」
『左』がシクシクと泣いていた。
「は~~、落ち着く」
元々平民出。
大戦時代も底辺での生活だった為か、王妃としての日々はか~な~り疲れる。
その為、出来るところでは以前の生活に近い状態を作り出す事で心の平穏を保つ日々だった。
といっても、王妃ではあるが庶民が想像する様な贅沢な生活は殆どしていないのも事実だが、それでも衣食住は十分すぎるものである事は間違いない。
紅玉は固い黒パンにかじりついた。
「美味しいね~」
「素晴らしいご馳走です」
元奴隷である楓々にとっても、テーブルの上の料理はご馳走以外の何物でもなかった。
というか、たぶん紅玉以上の感動を覚えていた。
そもそも、まず満足に食べられなかったし、一日一食の重湯や麦粥ですら主や奴隷商神の機嫌次第で投げ捨てられていた。
だから、助け出された時の楓々は酷くやせ細り、それこそ体は恐ろしく未成熟だった。
一方、元奴隷仲間である瑪瑙が保護された時は全く逆で、その蠱惑的な肢体は傷一つなく滑らかであり、匂い立つ様な色香を放っていた。
というのは、買い側が瑪瑙をそれはそれは大事にした為だった。
それもそうだろう。
苦労して手に入れた、『大切な大切な愛しく愛らしい華』が死んでしまっては、元も子も無いからである。
彼らは、瑪瑙が男であるにも関わらず、本神の意志を無視して『女』として扱った挙げ句、愛妾や正妻として無理矢理愛でていたという。
つまり、自分がたっぷりと楽しみ愛でる為には、最高の状態で置いておく必要がある、という傲慢な考えの下による結果であり、これは他の男妃達にも共通した境遇であった。
だが、たとえ衣食住は保証されていても、その代償として男妃達の支払った物は余りにも巨大であり、そして心ある者から見れば天国どころか地獄そのものだった。
神権、尊厳、家族、友神、住んでいた故郷ーーあげればキリがなく、その殆どがもう取り戻せないばかり。
特に殺された家族や友神、愛しい者などどうやって取り戻せというのか。
だからこそ、彼らの憎悪と怨念は果てしなく深い。
「せ、せめて、この前開発した新作の料理をーーって、紅藍姫っ」
紅藍姫もモグモグと食べている。
固いパンが次々と口の中に消えていく様に、『左』は泣きたかった。
「イケるわね」
「だよね~」
「最高です」
『左』は心の中で敬愛する王に土下座した。
が、そんな『左』の心労を余所に、空腹を満たした三神は話に花を咲かせていくのだった。